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人生のやり直し

 最近好んで観たり読んだりする映画や本の中には、過去に重いものを背負っていて気持ちがそこから抜け出せないままに今を生きている人が描かれている。タイムリーなことに(私がそれを求めているのか)twitterにも同じ様なことが呟かれていて、いろいろな人の目から見た「人生のやり直し」や「過去の精算」を目にすることが増えた。

 そこで残ったのは「無しにすることは出来ない」ということだ。
過去に壮絶ないじめにあった人がいて、その経験のせいで今も苦しんでいる。いじめた人が出てきて謝ったり若気の至りだと言ったところで、いじめられた人の苦悩は変わらない。
 無かったことにして仲良くしよう。「ごめんね」っていったら必ず「いいよ」って言おう、みたいなことを小さな子どもたちがやっているけど、謝って許されないこともあるってことを、人は認めたくない様だ。

 しかし「無しにすることは出来ない」と言う人たちが続けて「だから諦めろ」と言っているわけではない。してしまったことを、過去を抱えて歩いていかなければならない、と言っている。即ち、一旦それを認めるべきだと。それは認めたからといって帳消しにはならないけれど、だからこそ踏み出せる一歩もあるということかも知れない。無かったことにして前に進んでも、いつかまたその事実と向き合わなければいけない瞬間が訪れる。もしくは、ずっと心の片隅にあるそれが、忘れようとしても忘れられないそれが自分を苦しめ続けて、更なる罪を犯すきっかけとなりかねない。

 そして、人には罪があるということも併せて心に留めておきたい。思い出したくない、箱の中に入れ鍵をして胸の奥深くにしまっている何かを持っている人は多い。自分で意識していなくてもふとした瞬間に胸がひりっと痛むことがある。そんな自分でも探せない程奥にしまったものもあるだろう。
 人は成長過程で何かしらの失敗は免れない。その失敗や後悔の多くは自分が未熟だったからこそのことで、その後の成長のために必要なものだったはずだ。または、その人が抜け出せない苦悩から抜け出そうと選んだ"間違った方法"だったのかも。それが笑える過去になるかどうかはその内容や自分自身が自分に与えたダメージの度合いで違う。それを笑って話す人もいれば、ずっと胸に抱えたまま一生を終える人もいる。
 過ちを犯さずに成長することは難しいから、人生の時間が長い程人は何かしらの箱を抱えることになるんだと思う。
 誰かの罪を「許せない」と断罪して大騒ぎするのは、そんな自分へのカモフラージュかも知れないな、と思う。こんな悪さをするなんて、それに比べたら自分の罪なんて軽い軽いって主張するかの様に、人を叩く。罪を犯すということ自体は同じなのに。その社会的度合いや周りの反応に乗っかって、その人を叩きながら自分を擁護する。そして、ますます私たちは自分の過ちに向き合えない環境を作り上げていく。

 「死にたいって誰かに話したかった」この本を読みながら、私たちが棚に上げてきた自分の罪や過ちと向き合うことを考えた。人がみんな同じ様に人に言えなかった辛さや痛みを持っていると知ったら、もっと優しくなれるんじゃないか。そんなことわかってるのに、毎日の生活に追われて私たちの心には優しくなる余裕なんてない。人を責めて「自分は悪くない」と自分に言い続けることで自尊心を保とうとしないと、自己否定で倒れてしまいそう。

 そんな社会の中で、私は私でいたい、そう思っていたら。
私は大切な人にずっと隠して自分でも忘れていたことをポロッと話していた。

自分でも驚いた。
ヒリっとした。

でも、また歩いていけそうな気がした。

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なみお
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