その人の心には哀しみの龍が棲む
その人の心には龍が居ます。
その人の心には龍が棲んでいるのです。
その人は生まれてからずっと、自分の感情を諦めた時だけ、許される環境で育ちました。
哀しくて哀しくて、涙がこぼれ落ちそうなのに、親が望むなら楽しそうに笑って見せました。
涙をこぼしたら責められるからです。
ダメな奴だ、となじられるからです。
その人は自分の感情は全部、心の奥に放り投げて、来る日も来る日も親が望む感情を、さも自分の感情であるかの様に、表現して見せました。
親が望む感情は、親にとって都合のよい感情です。
怒りたくても、寂しくても、哀しくても、親がその人に求めるものは、いつも明るくて、いつも強くて、いつも賢いそんな、親から見て最高の子供像です。
だから、その人は、哀しさも、寂しさも、怒りも、全部心の奥に放り投げます。
放り投げた感情は消えて無くなることは有りません。
心の奥に積もります。
積もったネガティブな感情は時を経て、恨みのエネルギーを宿します。
恨みのエネルギーは、その人の心に一匹の龍を生み出します。
龍の頭は、無価値感で出来ています。
感情を否定され、存在を貶められ、自分には何の価値も無いと思い込んだ、その無価値な思い込みで出来ています。
龍の胴体は、哀しさ、寂しさで出来ています。
感じることを禁じられ、心の奥に放り投げた、哀しさや寂しさで出来ています。
龍の尻尾は、怒りです。
自分のありのままの感情を捨て去ることを強要された、理不尽な仕打ちに対する怒りで出来ています。
龍に流れる血液は恨みのエネルギーです。
そんな化け物を、その人は心に棲まわせています。
龍の頭には、二つの目玉がついています。
その人は、その龍の目を通して、世の中を見ます。
龍の頭は無価値感で出来ていて、その頭についている二つの目玉は、世の中を無価値な自分が見る世界、に変換します。
何を見ても、無価値な自分を感じます。
龍の目を通して見る限り、世の中は、哀しくて寂しい世界です。
生きて世の中を見る程に、龍の胴体には、哀しさや寂しさが溜まり、龍はどんどん大きくなります。
胴体は哀しさと寂しさで膨れ上がって、もはや龍は横たわったまま動けません。
横たわったまま、龍は怒りで出来た尻尾を振り回します。
苦しいから、虚しいから、哀しいから、寂しいから、龍は怒りの尻尾を振り回します。
その姿を周囲の他人は、傍若無人だと捉えます。
粗野な奴だ、と眉をひそめます。
その人自身も、訳も分からず、ただ腹立たしいと感じています。
しかし、振り回される怒りの尻尾は、哀しさと寂しさで、はち切れそうな龍の身体に繋がっています。
哀しさと寂しさに満たされた龍の胴体の上には、無価値感で出来た頭が載っています。
辿れば、世の中が不幸色に見えるのも、いつも哀しくて、寂しいのも、
怒りに振り回されてしまうのも、
過酷な生育環境によって固く思い込んでしまった、自分は無価値だ、という観念によるものです。
愛情豊かな両親の元に生まれ、肯定的に扱われ、尊重されて育つ人もいます。
その人は、心の中に龍はいません。
心に有るのは、自分の存在に対する安心感です。
安心感に後押しされて、その人は人生を歩みます。
安心感を得ることが出来ない環境に育ち、心に龍を棲まわせる人は、
そのまま生きるしか無いのでしょうか。
心の中の龍は、無価値感の頭を持ち、哀しさと寂しさで出来た体躯を持ち、怒りの尻尾を持っています。
龍の全身は、かつて感じることを禁じられ、心の奥に放り投げた、感情が積み重なって出来ています。
確かに、長い年月を経て、恨みのエネルギーを帯びてはいますが、
本当は、自分の大切な感情です。
おどろおどろしい化け物などでは決して無く、愛すべき自分の感情です。
怒れる尻尾を抱き留めて、哀しさと寂しさの背中を擦り、無価値感を溜めた頭を優しく撫でてあげることが出来た時、
龍は自分の中に溶け込みます。
親の都合や気分や好みで、否定され続けた感情を、
今、自分自身で解放する、という事です。
長い間、放ったらかしになっていた自分の一部を受け容れて、統合する、という事です。
龍は消え去る事は無く、自分自身の一部分として、一体になります。
湧き上がる自然な感情を捨てる事を強要され、
それに抗うことが出来ない環境だったのです。
人はポジティブな感情も、ネガティブな感情も湧き上がります。
それを親の都合で、ネガティブな感情を持つ事を禁じられたのです。
今、その封印されたネガティブな感情、
哀しさ、寂しさ、怒り、などなど全部受け容れて、
自分は価値有る存在だった、と思い出すことが出来たなら、
人生は豊かに、
足取りは軽やかに、
変わると思っています。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム