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苦しいときに寄り添ってくれる人
人生の浮き沈みを経験した人が、
「イイときは、沢山の人が寄って来るが、落ち目になったら皆去って行く。落ちたとき、苦しいときに寄り添ってくれる人が信頼出来る人」
といったことを語ります。
違う人物から異口同音に、この手の回顧録を聞いたことが何度か有ります。
私は、30%の共感に留まる感じです。
残りの7割は、「そうなのだろうか?」です。
人は多かれ少なかれ、上り調子のときは、慢心しがちなものです。
自信が確信に、確信が慢心に変わるのは、思いのほか、早いタイミングだと思ってます。
それほど、人は有頂天になりやすく、有頂天な状態は人を傲慢に変えます。
傲慢な人を好む人はいないでしょう。
にも関わらず、集まって来た人達は、その人の元に集まったのでは無く、
その人の 上り調子 に恩恵を期待して集まったのです。
だから、上り調子が落ち目に変われば、潮が引く様に皆居なくなるのは必然でしょう。
その人が傲慢だったと決めつけるのは早計だ、と思われる向きも有ろうか、と思いますが、
浮き沈みを経験した人が語る、
「落ち目になったら皆去って行く」
という言葉からは、
そこはかとなく、
去った皆に対する 恨みがましさ が滲んでいる様に思えます。
恨みがましさの背後には、自己憐憫が必ず有ります。
人は自己憐憫に陥ったなら、内省することを忘れます。
内省は自責することとは全く異なります。
恨みがましさは自己憐憫から相手を責めるとき生まれ、
恨みがましさから、文字通り自分を責めることが、自責の念です。
つまり、
責める対象が相手か自分かの違いであって、恨みがましさと自責の念は同じ、「自分は可哀想だ」という自己憐憫から生まれます。
皆が去った後、求められるのは、落ち目になった、皆から去られた自分を直視する内省の姿勢です。
自分や相手を責めることは、自己憐憫に捕まっている証拠です。
自己憐憫に捕まった人が語る「落ち目になったら皆去って行く」の後に続く、
「苦しいときに寄り添ってくれる人が信頼出来る人」ということが、
果たしてそうなのだろうか?と思えてしまうのです。
この言葉から透けて見えるのは、過度の依存心の様な気がします。
行き過ぎた依存心は、それに共鳴する人を呼び寄せます。
イジメられる人がイジメる人を呼び寄せる様に、
DVの被害者が加害者を呼び寄せる様に、
ネガティブはネガティブに呼応するのです。
可哀想な人、墜ちた人、に寄り添うことが好きな人は世の中に沢山います。
寄り添うことで、自分に価値を感じるのです。
墜ちた相手の位置よりも自分の位置が上である事に、喜びを感じます。
結果として弱っているときに寄り添ってくれるのだから良い、と思われますか?
苦しいときに寄り添ってくれる人だから信頼出来る人、と思われますか?
この寄り添う人と居る限り、墜ちたままでいなくては、関係は成立しないのです。
苦しい人も、寄り添う人も、自覚はありませんが、
ネガティブにネガティブが呼応している状態です。
この状態は、親子、恋人、友人などの間にもよく見られます。
相手が上手く行き始めたとき、無意識のネガティブな動機から苦しみに寄り添う人は、裏切られた様な感覚に陥ります。
場合によっては、上手く行くことを直接的、間接的に邪魔をしたり、
嫌味を言ったり、文句を言ったり、罵倒したり、離れて行ったりします。
勿論、ポジティブな動機から、寄り添う人もいる訳です。
その場合は、
苦しむ本人が内省し、原因を外に求めない状態にある、
つまり、
墜ちたことや、皆が離れたことも、自分の傲慢さが招いたことだ、と、
自己憐憫や過度の依存心を克服していることが必要だと考えます。
私はむしろ、
苦しいときに寄り添う人かどうか、に尺度を求めるよりも、
上手く行き始めたときに、心から、
「よかったね、おめでとう」と言える人かどうかに、信頼の尺度は有る様に思うのです。
私達の人生は、
如何なるときも、
起きる出来事は、単なる出来事に過ぎず、
すべては自分の心の中にある、ということが腑に落ちたとき、
恨みがましさや自責の念に因われない、
自由な感覚や、信頼を結ぶ人が、
見えて来る様な気がします。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム