押し潰されるぐらいなら、引き籠もったって構わない
過去の記事の中でも何度か、
安心・安全な居場所を確保する努力を最優先してみて下さい、と生きづらい人に向けて呼びかけました。
生きづらさを抱える原因は生育環境、とりわけ親子関係と言い切っても構わない、と思っています。
いわゆる機能不全家庭に生まれ育ったことが、生きづらさの原因です。
「どんな酷い環境に育っても、立派な人になる人もいる」
といった意見を耳にすることも少なくありません。
その意見は、その人の心が強ければ環境に負けることは無い、との意味である、と思っています。
もっと言うなら、心が弱いから生きづらくなる、という意見だと思います。
甘えているから、そうなる、と。
個人的には、的外れな意見だと思っています。
生まれた時から心が強い人はいない、と思います。
では、何故、酷い環境に育っても、負けずに健やかに生きる人がいるんだ、と言われそうです。
それは誰かひとり、その子の存在を尊重する人がいたから、です。
或いは、幼い頃、どこかで尊重される経験をした事があるから、です。
親から虐げられ、貶められても、ひとりでも愛情を注ぐ他人がいたならば、
愛を感じる瞬間を経験したならば、
充分な愛情には届かなくても、その子には微かな愛の残像が必ず残ります。
たった一度、愛情を湛えた瞳で視線を落として貰えた経験は、その子にキラキラ光る景色を焼き付けるのです。
それが有るから、過酷な環境に負けなかったのだと思います。
生きづらさを抱えざるを得なかった人が弱く、環境に負けなかった人が強い訳では無い、と確信しています。
生きづらさを抱える人は沢山います。
苦しむ人は山ほどいるのです。
では、その生きづらさを抱える人には、一度だけでも愛を零してくれる人は現れなかったのでしょうか。
過酷な生育環境に育つ人には、たった一度でも愛を零してくれる人と出逢うことは、難しい場合が多いと思っています。
機能不全家庭の親はかつて、やはり機能不全家庭に生まれ育ったのです。
本当の愛情を知らずに育ち、大人になって愛の無い家庭を作りました。
機能不全家庭が世代間で連鎖した訳です。
だから、親も子も、おじいちゃん、おばあちゃん、おじさん、おばさん、いとこまで、
本当の愛情を知らないのです。
惜しみなく愛を注がれて然るべき幼少期に、周りを囲んでいるのは、愛を知らない人ばかりです。
私も経験済みですが、その負の連鎖に浸かった一族は、
中の誰かが生きづらさに気がついた時、生きづらさを手放すことを許しませんし、
気がついた人は、気がついたその瞬間から、家族、一族の中に在っては、異端の存在です。
気がついたその人は、おかしくなった、と言われます。
親不孝者、と呼ばれます。
まともじゃない、と批難されます。
実際、一族目線で見るなら、気がついた人が異端であることは間違いでは無いのです。
負は連鎖しているのですから、気づいた人は異端です。
生きづらい人が、自分の生きづらさに気がつく事は簡単ではありません。
周りはひとり残らず負の連鎖の世界に生きていますから、
健やかな風景を目にすることが無いのです。
その環境にあって尚、気がつくことは実に尊い、と心底思います。
その環境にあって、気がつくことは難しい上に、
その環境のまま、生きづらさを手放すことは、
難易度が如何に高いか、ということです。
生きづらさを手放す時、自分と向き合います。
過去を見つめ、原因を探り、手繰り、辿り着くのです。
静かに内省することが求められます。
家族、親族の総攻撃を受けながら、生きづらさを手放すことは、とても難しいと感じます。
過去を探り、手繰り、辿り着く行程は、言い方を変えれば、自分を育て直す感覚です。
そこが不安と危険に満ちた環境だった為、生きづらさを背負わざるを得なかったのですから、
その環境に身を置いたまま、自分を育て直すことが難しいのは、わかり易いのでは無いか、と思います。
生きづらい人は傷だらけです。
気がつく頃には生命のエネルギーが枯渇していても不思議ではありません。
日常の身の回りの事すら、こなすことが苦痛な状態に陥っていることも珍しくありません。
そんな中、安心・安全な居場所を確保して下さい、と、無理を承知で言っています。
その人が生来、実家暮らしであったなら、ハードルは高いです。
経済的にも、物理的にも、精神的にも、容易なことでは無いですが、
そこに生まれ育ったから、こんなにも苦しんだ、ということを認めて、
安心・安全な居場所を作ることを、最優先に考えて頂きたいのです。
もしも、今、生きづらさに押し潰されて、どうしても動けない状態ならば、
今は引き籠もったとて、構わないと考えます。
生きづらさを手放す行程も、状況に合わせて段階を踏む必要があります。
生きづらさに気がつくこと、がホップです。
安心・安全の確保が、ステップ、
自分と向き合い、決断し、手放すことがジャンプ、の三段跳びです。
気がついた、ということは、踏切りが一番難しい一歩目をクリアしたということ。
焦らず、傷を癒やし、今、二歩目の跳躍の準備です。
その間の注意事項は、自分を責めない、ということです。
自分を責めてしまうクセがあります。
過酷な環境を生き抜いたせいです。
本当は尊い気づきを迎える程に勇敢です。
だから今、動けなくても本当は勇敢な自分を、今までのクセで、決して責めないで下さい。
今は二歩目の跳躍の為に屈曲しています。
勇敢な自分であることを忘れなければ、屈曲の間に力は溜まり、必ず二歩目の跳躍に成功します。
難しい、ホップ、ステップをクリアした勇敢な人は、
自分と向き合い、決断することが出来ます。
大きくジャンプしたなら、
着地するのは、望む人生です。
生きづらく無く、
足取りは軽い、
そう感じる、はずなのです。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム