納得して生きるには
何か失敗をしたとき、
結果はさて置き、
サッパリした気分になるときと、
失敗という結果に執らわれ、
重ったるい気分になるときが、
無いでしょうか。
その違いは、おそらく、
サッパリと軽い気持ちになるときは、
自分の素直な「好き」か「嫌い」か、
或いは「快」か「不快」か、
を基準に選ぶことが出来たとき、
つまり自分の心に従って、自分で決めたときでは無いでしょうか。
逆に、重たい気持ちになるときは、
「好き」「嫌い」よりも「得」か「損」かで選び失敗したか、
もしくは、そもそも自分には選択権が無く、自分の心に従うことが出来なかったとき、では無いでしょうか。
勿論、自分の心に従った選択ばかりを出来る訳では無いです。
仕事では会社の方針や、上司の意向に従わなければならない場面は沢山有るでしょうし、
まだ独立していない状態であれば、親の言いつけがあったり、
気のおけない友人との間でも、自分の「好き」「嫌い」は、さておいて友人の気持ちを優先させることは結構、有る筈です。
しかし、ここで、
会社の方針、上司の意向、親の言いつけ、友人の気持ち、にオートマチックに従ってしまうだけの人は少なくない様に思うのです。
オートマチックに従ってしまう、ということは、思考停止したまま、自分の人生の主導権を他者に委ねている、ということだと思います。
これは何も、自分の判断基準を他者に押し付けること、我を通すことをおすすめしている訳ではありません。
問題点は、先ずは「従ってしまう」ことよりも、「オートマチック」である、というところに有るのかも知れません。
つまり、思考停止したまま簡単に譲ってしまう程、
自分の「好き」「嫌い」も、
自分の人生も、
自分の存在も、
安いものでは無いと思うのです。
たかだか仕事上の書類の内容で、
たかだか親との門限の取り決めで、
たかだか友人と何処に食事に行くかで、
人生とか、存在とか、そんな大袈裟な話しでは無い、と思われるかも知れません。
しかし、その後に続く言葉は、
「私さえ、少し我慢すればイイ話しだ」では無いでしょうか。
長い人生で「小さな我慢」の蓄積は、想像以上のダメージです。
自覚無く、「小さな我慢」を連ねることは、自覚無く「今」を捨てることです。
捨てた「今」の連なりが、人生になると思うのです。
やむを得ない我慢は有ると思いますが、先ずは、その我慢がオートマチックだったり、当たり前だと感じてはならないと思っています。
価値有る自分が、価値有る人生の「今」を、その事に充てるのですから、
例えば、その会社が、その仕事が、上司が好きだ、
或いは、その会社に勤めることを含む自分の今の生活は心地よい、
だから、納得して、自分の人生の「今」を使う。
親の決めることは、厳しい面も有るが、両親の心配も分かる。
今度、自分をもっと信頼してくれてもいいんじゃないか、と考えを伝えてみよう、だから「今」は納得出来る。
この友人が好きだ、自分も友人が喜ぶ顔が見てみたい。
次は私の希望を叶えてもらうが、今日は友人の笑顔を選択しよう。
納得して「今」を過ごそう。
三つのケースのいずれも、オートマチックでは無いです。
そして、選択する主体は自分です。
要するに、「従う」ときには、傍らに「納得」が必要と言えます。
「納得」無しに「従う」のは、「支配」と「従属」の関係性です。
「納得」するには先に、自分の中に「好き」「嫌い」が無くてはなりません。
当たり前だ、と思うかも知れませんが、自分の中に「好き」「嫌い」が確立していない人は思うより沢山います。
「好き」だと思っているのが「得」、
「嫌い」だと思っているのが「損」、
自分の基準と思っているのが、
親から引き継いだ基準、
世間一般の基準、
規範意識、
という場合は、とても多いと思っています。
自分の中に、「好き」「嫌い」が無い。
自分の中の、「快」「不快」の感覚が鈍い。
自分の中に「確かな【自分】という意識」が無い、
その様な心の在り方は、とても苦しい状態なのですが、
自分の中に【自分】が無いと、その苦しさに気づくことさえ難しいのです。
納得の今を生きたなら、
その連なりは納得の人生になることでしょう。
そうしたとき人生の主体は自分自身です。
例え小さなことでも、
自分自身を安く見積もる習慣は、
人生を苦しいもの、
虚しいものに変えてしまう様に思います。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム