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『読みたいことを、書けばいい』 - この本の愛読者の文章なら、きっと面白い

最後のページを閉じた後、私はこの本についてつぶやいている人を検索し、そっとフォローしたり、彼らの他の記事を読んだりしてみた。

この本に共感した人、感銘を受けた人の文章なら、きっと面白いんじゃないかな。そんな風に思えたから。



『読みたいことを、書けばいい。』 

一言で説明するなら、痛快な文章本だ。「私の文章を多くの人に読ませたい」「僕の自分語りに興味を持って欲しい」みたいな書き手のエゴを、ばっさばっさと斬って捨てていく。

そう、本書のタイトルは、『書きたいことを、書けばいい』ではないのだ。

『読みたい』と『書きたい』。一見似ているし、好きなことを自由に書き散らかせばいいんだという肯定のメッセージにも聞こえるかも知れないけれど、ここにこめられた意味はなかなか厳しい。

なんたって、「もう他の誰かが書き切っていることなら、あなたがいまさら書く必要なくない?だって、すでに存在している文章を読んでいればいいでしょ?」っていう、根本的な問いを突きつけてくるのだから。

同時にこれは、愛あるエールでもある。それを読みたがる読者が、面白がる人が、自分を含めて一人でもいるならそれでいいじゃんって。

「職業適性診断」チャートの頭にいきなり「あなたはゴリラですか?」なんて謎の質問文を差し込もうが、前作を褒めてくれた人の期待に次作で答えられなかろうが、「自分が楽しければいいじゃん」って。

他人の評価とか流行とか、外側にある物差しから自分を解き放ってくれる本だ。「読みたいことがあって、それは自分にしか書けない」人たちにとっては。



1億総発信時代とも呼ばれる今日。世の中には発信したい人も、それを後押ししようとするコンテンツも溢れている。でも本書は、そんな「発信者」予備軍を無条件に応援するような「文章術」とは一線を画している。

文章術というのは基本的に、自分の記事を、作品を、宣伝を、いかにして他人に読ませるか、あわよくばバズらせるかに焦点をあてている。「それって書く意味あるんだっけ?」「発信する必要あるんだっけ?」みたいな、そもそもの出発点をひっくり返すようなことはしない。

もちろん、そんな文章テクニックの中には素晴らしいものもあるわけで。私たちは実際、書かれる意味も発信される必要もなかったはずの文章を読んで泣いたり笑ったりもするし、そういったコンテンツのエッセンスを抽出して未来のエッセイストや作家に提示してくれることは、一読者としてもありがたい。

でも中には、自分は食べたくない料理を美味しそうにみせる写真のテクニックとか、自分は受け取りたくないプレゼントをキラキラした包装紙に包んでごまかす方法とか、それに近しい「文章術」が蔓延しているのもまた確かで。

そんな風潮に疑問を投げかけるのが、著者・田中泰延さんと編集者・今野良介さんだ。


「正直」な文章とは

象徴的なのが、この本の誕生秘話。

2016年、電通のコピーライターを退職した田中泰延さんのもとには、出版社から数々のオファーが届いたという。

『電通なんて辞めちまえ!俺のツイッター活用術』
『バズる!儲かる!WEBライティング』

だけど、そんなギラギラした企画書に田中さんは見向きもしない。

田中さんを口説き落としたのは、今野良介さんという編集者の方だったという。この今野さんが田中さんに送ったというメールがまたすごい。今野さんからは半年かけて何万字ものメールが送られてきたそうだが、その一通目が本書にも転載されている。

「私が、この本を通して実現したいことは、「正直な書き手が増える」ことです。」
「私は、田中さんの大量のツイート、特に、フォロワーの方々とのやりとりを見ていると、嘘をついている人や、他人を傷つけることに無頓着な人を、瞬時に見極めてリプライされているように見えます。」

編集者から著者へのメールが本文中に転載されている本にはなかなかお目にかかったことがないけれど、そこに何度も登場する「正直」や「嘘」というキーワードをみてふに落ちた。

「正直」と「嘘」。これこそが本書を貫くテーマであり、2人が二人三脚で届けようとしているメッセージの核心部分であり、だからこそこの本には今野さんの文章も載る必要があったんじゃないかなと、そう思った。


「私正直者だし、嘘なんて書いたことないよ」と思うかも知れないけれど、著者田中さんが設定する「正直さ」のハードルはめちゃくちゃ高い

たとえば、就活の際に書くエントリーシート。「すべての志望動機はうそ」だと、田中さんは言い切る。

「そんなに成長性や将来性を感じるのであれば入社なんかせずに、株を買った方がいい。」
「そんなにしたいことがあるんなら、だれかに雇われるよりも自分で会社をつくったほうがいい。」

それはまぁそうだ。確かにそうだ。

それは安定した月給や会社員としての身分かも知れないし、経験やスキルアップかも知れないけれど、とにかく就活生には「株を買うより起業するより入社したい」動機がある。それを無視してとりつくろった志望動機なんて「ウソ」だし「どうでもいい」と、田中さんは言う。

そんな田中さんが志望動機欄に何を書いたかというと、「御社が私を必要としているように感じたので」。以上。


・・・すごい。ブレない人だ。


個人的には真似できないし、私が面接官なら「とは言え人を募集してる企業なんて星の数ほどあるんだから、その中でうちを選んだ理由を教えてよ」と思う。「名前を知っているから受けに来ました」とか言われたら、間違いなく落とす。その点私は電通の面接官とは考え方が違うし、そもそも私はその昔、電通を受けて早々に落とされている。

何が言いたいかというと、田中泰延さんという人は、自分が使う言葉の正直さについて並々ならぬストイックさを持ち続けてきたということだ。しかも、少なくとも学生時代からずっと。

そのストイックさは、「言葉の定義」へのこだわりにもあらわれている。

「定義をはっきりさせよう」と聞くと、「アライアンス」に「コンプライアンス」みたいなカタカナ語を意味も分からず使うな、ということだと思うかも知れないけれど、そうじゃない。

田中さんが問うてくるのは、「随筆」とか「趣味」とか「幕府」みたいな、一見シンプルな言葉の定義だ。田中さんが説明する「随筆」や「趣味」、「幕府」、それから「広告」には、はっとさせられた。このアハ体験を味わえただけでも、読んだ価値があると思えるくらい。


「書き手」の自分と「読み手」の自分

人が疑わないものを疑い、無自覚な「ウソ」に自覚的になり、納得いくまで本質を掘り下げる。そんな田中さんは当然、よく見かける「文章テクニック」に対しても手厳しい。

「「たった一人のだれかに手紙を書くように書きなさい」というのもある(中略)が、それはLINEしてください。」

「それはLINEしてください。」

お、おう。

ライターになりたい本を出したいバズらせたい有名になりたい成功したい稼ぎたい承認欲求をみたしたい。内心そんなギラギラを燃え上がらせてキーボードに向かう書き手の出鼻を、いきなりくじく。「書き手」としての私にとっては、なかなか厳しい言葉ではある。

でも私たちは同時に「読み手」としてのキャリアも相当積んできていて、「今日もしょうもない文章に時間割いちゃったな・・・」みたいな経験もたくさんしている。


そんな「読み手」としての私が、本書を読んで拍手喝采している


そう、これは「書き手」の自分をちょっと黙らせて、「読み手」の自分にご登場願おうという本だ。

誰かの自分語りを読み飛ばし、「潮風と、静謐をまとうタワー生活。」みたいなマンションポエムに笑い、「誰も教えてくれないなんちゃら」という名目で披露された知識の陳腐さにツッコミを入れ、溢れかえるコンテンツにすっかり目が肥えている・・・そんな「読み手」の自分を呼び覚ませと。


もちろん、自分の中の「読み手」が求めるものは人によって違うだろうけど、著者田中さんは読者としても相当にガチな人だ。

なにしろ、自分が映画を観て感動した理由を読みたくてしょうがなくなり、その結果書いた映画評が平均で7000〜8000字、長いもので1万数千字になったというのだ。

この本はきっと、7〜8000字の映画評なんかを定期的に読みたくなってしまうような誰か、でもそんな長い文章に需要なんてあるんだろうかと、趣味に走った文章を面白がってくれる人なんているんだろうかと迷っている誰かに向けた、究極のエールなんだと思う。

私がこの本の中でとりわけ好きな箇所がこちら。

あなたは世界のどこかに、小さな穴を掘るように、小さな旗を立てるように、書けばいい。すると、だれかが、いつか、そこを通る。

書くことは世界を狭くすることだ。しかし、その小さななにかが、あくまで結果として、あなたの世界を広くしてくれる。

身を削る思いで書いても、すぐには何も起こらないかも知れない。意図した相手には届かないかも知れない。狙ったような成果はあらわれないかもしれない。けど、それでもきっとそこに意味はあると、希望を抱かせてくれる。


この本の愛読者の文章なら、きっと面白い

冒頭でも少し触れたけれど、「この本が座右の銘です!」などと宣言するのは、書き手にとってけっこう勇気がいることだと思う。

「私は念入りな調査を経て、世の中にないものを書いています。借り物の安っぽい言葉やバズるためだけの上っ面テクニックからは距離を置き、自分の紡ぐ文字に誠実に向き合っています。少なくとも、それを目指しています。間違っても「ハーバード流スタンフォード術」などという本で手っ取り早く儲けようなどとは思っていません。」という所信表明になってしまうから。

なのでちょっとお断りを入れておくと、「私」という読み手は、「田中泰延さん」という読み手より甘い。相当に甘い。

この記事自体、本書のアドバイスを実践していない。記事公開前に「他の人はどんなことを書いてるんだろう」と検索していたら、見つけてしまった。私の感想文よりはるかに豊かな語彙で、なるほどと膝を叩く考察があますところなく展開されている記事を。

田中さんが過去に書いた「第九」評9000字を読み込んだ上で、本書との関連性まで指摘したりしている。

「物書きは「調べる」が9割9分5厘6毛」とうたう本の感想文を書くにあたり、本文中にリンクされている過去記事もろくすっぽ読まずに着手した私とは大違いだ。

だけど、まぁいいか、大事なことなら何度読んでもいいよね。ていうかもう書いちゃったし。と、「甘い読み手」の私は公開ボタンを押そうとしている。

私みたいな甘い読み手ももちろんいるのだけど、この高井さんという方の文章を読んで、私は「あぁやっぱり」と確信を深めた。

この本に共感した人、感銘を受けた人の文章なら、きっと面白い。


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