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【小説】先生の花

(約10,400字)

 いまはもう草原と化したグラウンドの真ん中に、先生は、ただひとりで立っていた。

 その凛々しい姿を目にした瞬間、あたりに立ち込めていた蝉の声が、しゅわっとやんだ。考えるよりも先に、身体が動く。わたしは草を踏み分け、先生のもとへ走り出していた。

 近くまで来ると、わたしは先生を見上げる格好になった。

 草の青さをいっぱいに載せた風が吹き、先生の身体がゆらゆらと揺れる。それが、いつも気怠そうに廊下を歩いていたあのころの先生の姿と重なる。

 背後にある青空と入道雲が痛いくらいに眩しくて、先生の表情を影らせる。
「ご無沙汰してます、先生」わたしは目を細める。「会いたかったです」
 先生は何も言わずただ静かに、風に身をまかせて揺れていた。

 首筋を、大粒の汗がつうっと流れていく。
 蝉の声が、再びうるさいくらいに響き出して、わたしと先生を包みこんだ。

 わたしの忘れられない先生は、一輪のひまわりになっていた。


 先生と出会ったのは、高校の入学式だった。若い先生だな、と第一印象はたったそれだけだった。若い先生というと親しみやすい感じを想像するけれど、先生はまったく逆だった。

「今日の日直、誰?」

 先生がわたしたちの教室で初めて発した言葉はそれだった。黒板をこぶしで軽くたたきながらだったから、「早く前の授業の板書を消しなさい」という意味なのはすぐに分かった。日直の生徒は慌てて立ち上がった。

「前の授業が終わったらすぐに消せばいいだろう?」

 先生のつぶやきで、教室の空気が一気に緊張した。「やばい、この先生」と、入学して出会ったばかりのクラスメイトたちが一瞬にして団結した。

 その後の授業でも先生は、居眠りはもちろん、授業以外のことを考えることすら許さなかった。

「窓の外ばっかりみてぼけっとしてるんなら、受ける必要ないぞ」

 誰にともなく、教卓のうえに置いた教科書に目を落としたままそんなことを言うのだから、「性格悪い」と陰口をたたかれるのも頷ける。

 冷厳で威圧的。それが先生の第二印象だった。

 高校二年生になって、先生がわたしのクラスの担任になった。
 始業式の日の学年集会で担任が発表されたとき、隣に座っていた男子が「うわあ、終わった」とつぶやいて、別のクラスメイトと目くばせをしていた。

 その日の昼休み、一緒に弁当を広げていたみんながクラス替えの話題で盛り上がっているなか、わたしはその空気にのりきれずにいた。

 誰にも言わなかったけれど、そのころのわたしは、とても不安定だった。思春期特有の心の脆さに苦しめられていたのだ。

 ひとつのことに躓くと、勉強も部活も家族のことも友達とのことも、何もかもが芋づる式にうまくいかなくなった。自分が我慢すること。それがすべての問題の解決方法で、そうすれば誰も傷つかないし悲しまないのだと思い込み、負の感情はかたっぱしから自分の弱さのせいだと決めつけた。だから、誰にも頼れず弱音も吐けず、自分の世界に閉じこもって、少しずつ少しずつ腐っていった。

 そんなわたしの心の中を、唯一見抜いたのが先生だった。

「おい、◆◆」

 ある日の放課後、廊下ですれ違った先生が、わたしを呼び止めた。

「お前、最近おかしくないか? なんか、あったのか」

 不意打ちだった。いつになく穏やかな先生の声が、抵抗する暇なんてないほどすんなりと、心に染み込んできた。
 なんで。いつもわたしたちに興味なんかないみたいな顔してるくせに。
 検討ちがいの苛立ちを覚えて、握った掌に力が入った。

 わたしはもう、自分の心を取り繕うことはできなかった。突然泣き出したわたしを、先生は、何か言えるようになるまで黙って待っていてくれた。

「全部、わたしが悪いんです」

 わたしは、それしか言えなかった。
 何かを感じ取ろうとしてくれる先生の誠実さが苦しかった。でもそれ以上にとても暖かかった。

「なにもかも、自分のせいにすりゃあいいってもんじゃない」

 先生は、無責任にわたしを肯定したり慰めたりはしなかった。まるで授業をしているときように淡々とわたしを諭した。

「自分で考えることは大事だ。だけど、それとひとりよがりになることとは違う。それに、どんなに誰かのためだって思っても、自分自身を大切にできないようならそれは優しさじゃない。単なる自己犠牲だ」

 自己犠牲だって、時には必要なんじゃないですか。

 わたしは、生意気にそんなようなことを言った。すると先生は、わたしの目を見据えて答えた。

「誰かが何かの犠牲になるような世界で、俺たちは幸せになれると思うか?」

 わたしはその時に確信した。先生は、絶対に悪い者じゃない。それまでわたしは、先生の表面しかみていなかったんだと気づかされた。先生はきっと、誰にも好かれなくてもかまわない、感謝なんてされなくていいと諦めきっていたから、わたしたちとの間に壁ができていたのだと思う。壁の向こうからいつも、先生はわたしたちのことを見ていてくれていた。もちろん、クラスメイトたちがこぼす先生の愚痴にも、共感する部分は多々あった。それでも先生が、先生を諦めきった思いそのままに、みんなのなかで悪者になっていくのは、なんだかやるせなかった。

 あのとき先生が声をかけてくれなければ、わたしはずっとわたしのことが嫌いで、それが正しいことだと勘違いしたまま過ごしていただろうと思う。今は、自分の存在を蔑ろにすることがどれだけ愚かなことか、きちんと分かっているつもりだ。
 だけど、時々考えてしまう。先生自身は、どうだったのだろうか。先生はちゃんと、先生のことを肯定しながら生きていただろうか。

 わたしたちが高校を卒業すると同時に、先生も別の学校へ異動することが決まった。
 離任式は卒業式の三週間後に行われ、その年の卒業生だけは、希望すれば式に参加させてもらえることになっていた。

「六年間、お世話になりました」

 最後の挨拶をするためにステージに登壇した先生は、そう言ったあと、目線を下げたままで静止した。何を言おうか考えているというより、用意してきた言葉を言うべきかどうか迷っている、という様子だった。
 その一瞬の沈黙のあとで、先生は口を開いた。

「最後にひとつだけ、みなさんに伝えたいことがあります」

 いつもと変わらず静かなトーンだったけれど、いつになく力のこもった声だった。

「みなさんは明日のこと、と言われて何を思い浮かべるでしょうか。部活や塾が憂鬱だというひとが大半かもしれませんね。今は春休みだけど、普段は一週間の大半を明日も学校か、と思って過ごしていると思います。まあ、どんなに来てほしくないと思っていても、明日は来てしまうものです」

 そこで先生は再び目を伏せ、小さく深呼吸をした。なぜか、わたしも一緒に息を吸い込んでいた。先生は顔を上げて、続けた。

「でもそれは、絶対ではありません。今日が無事に終わって、想像した通りの明日があることは、当たり前ではないんです。みなさんにはどうか、それを心の片隅でわかっていてほしい」

 わたしはそれまで見たことのないような、先生の切実な言い方に圧倒されていた。

「以上です、ありがとうございました」とお辞儀をして顔を上げたときには、先生はいつも通り、力の抜けた姿に戻っていた。

 わたしは先生がステージを下りていく様子を眺めながら、隣に座っている同級生にばれないよう、ゆっくりと息を吐き出した。

 翌年、高校が夏休みに入ったころを見計らって、先生に会いに行った。先生の故郷だという町で、海まで歩いて数分の、小高い丘の上にある学校だった。

「俺なんかに会いに来る物好きな生徒は、お前が初めてだ」

 心なしか先生の表情や口調が、あのころよりも柔らかく感じた。
 わたしは、先生がひどく日焼けをしていることが気になった。テニス部か水泳部の顧問にでもなったのだろうかと、思ったままを口に出して訊ねた。

 先生は自分の腕を眺めながら軽く撫で、「いや」と首を振った。「まあ、色々、やってることがあるんだ。ここでしかできなくてな」
 ごまかそうとして、先生の顔が不自然にゆがむ。笑うのが下手なのだ。

 わたしたちは、職員室から少し離れた廊下で立ったまま話をした。一人暮らしは案外寂しいとか、どんなアルバイトがおすすめかとか、たわいもないことばかりだった。校舎は電気がついていないために薄暗く、囁き声さえ反響するほどひっそりとしていた。
 先生は帰り際に、「時間があるなら、あの碑を見ていったほうがいい」と、海岸までの道のりを教えてくれた。

 外に出ると、陽射しがじりじりと肌を焼くように痛かった。
 見送りに出てきてくれた先生と、来客用玄関から校門までのわずかな距離を、やけに時間をかけて歩いた。何か言わなければと思っていたけれど、何を言えばいいかわからずにいた。

 すると先生が、心の声を思わず落っことしたかのように呟いた。

「俺がやっていることなんて、自己満足以外の何ものでもないのかもしれないな」

 先生が何のことを言っているのか、もちろんまったくわからなかった。先生の表情を確かめたくて隣を見上げたけれど、よく晴れた空が眩しくて、はっきりとは見えない。わたしはその時、先生に何か言葉を返したのだろうか。今はもう、思い出せない。

 ただ、別れ際に「また会いに来ますね」と言ったわたしに、「おう、待ってるよ」と答えてくれたことだけはちゃんと覚えている。

 先生に教えられた道のりを辿って、わたしは一人、海へ向かった。

 その石碑は、海水浴場の入り口に設置されていた。夏の華やかさとは一線を画す、厳かなたたずまいだった。

 先生が見ていったほうがいいと言ったもの。それは、慰霊碑だった。
 その当時から数えると十五年前の冬。太平洋の真ん中に巨大な隕石が落ちた。その数十分後、隕石のせいで跳ね上がった海面が大津波になって、太平洋を囲む国々の沿岸を襲った。この町も例外ではなかった。たくさんのひとが海へ連れ去られ、亡くなった。十五年が過ぎた当時でも、行方がわかっていない人が少なからずいた。慰霊碑に刻まれているのは、そういった人々の名前だった。悲しいくらいに整然と、その白い文字たちは並んでいた。

 それでも慰霊碑の向こう側に見える海は、あまりにも青く美しくて、そこで感じた何かを表現するための言葉をすべて奪い去っていった。

 それからおよそ三年間、わたしは、先生に会いに行かなかった。都会の大学で出会った友達や先輩、その人たちに教えてもらった新しい遊びに夢中になって、地元のことをあまり思い出さなくなっていた。

 そのことを、今頃になってすごく後悔している。

 もう一度先生に会いに行こうと思い立ったのは、本当にただの気まぐれだった。先輩に誘われて田舎の港町までドライブに行った日の夜、布団のなかで急に先生の声を思い出したのだ。海の匂いと濃厚な夏の肌触りが腕の中に残っていたせいかもしれない。

 直接先生に通じる連絡先は知らず、最後に先生と会った海の近くの学校へ電話をするしかなかった。電話に出たのは、事務員と思しき中年女性の、はつらつとした声だった。

「あの、M先生の前の学校でお世話になっていた者ですが。先生はいまも、そちらにいらっしゃいますか」

 緊張して、声が揺らいだ。
 先生の名前を口にしたとき、相手の息が詰まったような、小さな沈黙があった。その息をゆっくりと吐き出しながら、事務員の女性は言った。

「残念だけど、M先生は......」
 不穏な前置きに心の準備をする暇もなく、現実は耳元に突き付けられた。
「三年前から、行方不明になっているの」

 え? わたしは、思わず不躾に聞き返していた。事務員の女性は先生についての情報を、言える範囲で、親切に説明してくれた。
 しかし、わたしの耳には何も入ってこなかった。心臓が、壊れそうなほど速く重く脈打った。

「......すみませんでした」

 やっとの思いでそれだけを言って通話を切ろうとしたとき、電話の向こうから、事務員の女性に話しかける男のひとの声が聞こえた。事務員の女性が受話口をおさえ忘れているのか、会話が丸聞こえだった。

 ――もしかして、〇〇先生のお知り合いから電話ですか?
 ――ええ、前の学校の教え子という方から...
 ――え、教え子? ちょっと、変わってください。

 受話器の向こうでがちゃがちゃと騒々しい音がして、次の瞬間には男のひとの声が、わたしに話しかけてきた。

「もしもし? M先生の、教え子さん?」

 わたしはあっけにとられて、はい、と消え入りそうな声で答えた。

「M先生に、会いに来ようと思ってくださったのかな?」

 そのひとの質問に、わたしはまたしても、はい、とだけ答える。

「そうでしたか。もしよければ、予定通りこちらにいらしてくれませんか。あいつの話を、あなたとしたい」

 あいつ。先生も、そんな風に呼ばれることがあったんだ。

 わたしはそこの高校の教師だというその人と、言われるがままに会う約束をし、電話を切った。

 混乱した頭が冷静になるにつれて、寂しさや悲しみが薄暗い波となって、徐々に心の中を侵食していった。

「遠いところを、申し訳なかったね」

 その人と待ち合わせをしたのは、電話をかけた日から一週間後の今日、あの慰霊碑の前だった。
 スポーツ刈りで健康的に焼けた肌、引き締まった身体と力のこもった目が印象的な人だった。

 わたしたちは陽射しをしのぐため、近くにある東屋へ入った。木のにおいが立ち込める空間で、向かい合わせに腰をおろす。しばらくの間、お互いになにも言わずに、ただ海を眺めていた。初めてここを訪れたときと変わらず、海の青は眩しくて、優しかった。
 先に口を開いたのは、その人だった。

「M先生は、どんな先生でした?」

 海のほうへ顔を向けたままだったため、こちらから表情はうかがえない。

「冷たくて、厳しくて、あまり好かれてはいなかったかもしれないですね」

 そう答えると、その人はこちらを向いて、「そうですか」と口を開けて爽やかに笑った。正直に言い過ぎたかな、と少し反省する。
「でもさ、卒業してから三年も経つのに会いに行こうって思ったってことは、彼を慕っていたってこと?」

 その質問に答えようとすると、高校時代にみた先生の記憶がいくつも頭のなかに浮かんできた。腐りきったわたしの心を救ってくれたあの日のことも、鮮明に。

「うん。まあ、そうですね」

 とても柔らかい気持ちで、そう返事をした。その人も微かに目を細めて頷いた。

「先生は厳しくて、冷たくて、怖かったですけど。でも、芯のところにちゃんと、なんていうか。暖かいものを大事に持っているような、そんな人だと思うんです」

 言葉に詰まりながら、やっとそう言った。その人は真剣な顔で、大きく頷いた。

「僕も、そう思うよ」

 なんだかとても先生に会いたくなって、先生に会えないという現実が、突然生々しく襲い掛かってくる。

「先生とは、同僚だったんですか?」
 今度は、わたしが質問をした。

「大人になってからは、そういう関係だね」その人は、涼やかな口元で答える。「僕も、この町の出身なんだ。先生とは高校時代の部活の、先輩後輩でもある」
 ちなみに僕のほうがひとつ先輩、とその人は付け足す。わたしは、へえ、と息を吸って頷いた。

「M先生のほうが、老けてますね」

 わたしがそう言うと、先生の先輩は快活に笑った。笑ったあとで何かを懐かしむように、再び海のほうへ顔を向けた。

「昔っから、ああだったんだ。いつも静かに物事を眺めていて、何もかも見抜いてるんだけど、誰にも言わない。ひとりだけでどんどん先にいくんだよ、あいつは。だから、同年代のやつらよりも老成してみえるんだろうな」

 わたしは、その人の横顔を眺めていた。先生は、きっとこの先輩のことをとても信頼していたのだろうな、と思う。
 この先輩のまえで、先生はどんな表情をしていたのだろう。

 わたしはその時、それまで口にすることをためらっていた問いを、先生の先輩へ投げかける覚悟を決めた。この人の口から答えてもらえば、ちゃんと受け入れられるかもしれない。そんな思いが、背中を押した。

「......先生は、どうしていなくなってしまったんですか」
 思ったよりも強く自分の声が響いた。

 先生の先輩はゆっくりとこちらを向き、寂しそうに口元を歪めた。そしてまた、海のほうへ視線を戻す。

「そういえば、あの日は雨が降っていたな。もう秋の入り口で、冷たい雨だった」

 先生の先輩はそう切り出して、おもむろに立ち上がった。

「あの日の朝、いつも一番か二番に職員室に来てたM先生が、いなかった。始業の時間を過ぎても何の連絡もない。さすがにおかしいと思って、上席の先生が電話したんだけど、連絡がつかなかった。僕も何度もかけたけど、一向に出る気配がなかった」

 先生の先輩が東屋を出て歩きだしたため、わたしもついていく形になった。大きな背中が、その日を語る。

「先生の自宅に向かった教頭が、その道中で、海水浴客用の駐車場で空っぽになった先生の車をみつけた。それから、先生のスマートフォンと手帳が浜辺に置いてあったのがみつかって、先生が最後に海にいたのは確かだろうっていうことになった。何かしらの事故で海に流されたんじゃないかってね。ただ、海水浴シーズンが終わっていたこともあって、目撃者がひとりもいなかった。夜中か明け方か、人がほとんどいない時間に事故に遭ったのかもしれない」

 先生の先輩の声はとても落ち着いていて、その日からの時間の流れを感じさせた。三年間だ。三年もの間、わたしは先生のいなくなった世界を何も知らずに生きていたのだ。
 夜の浜辺を、ひとりで歩いている先生の姿が目の前に浮かんでくる。海も空も砂浜も暗闇に沈んでいて、その中に、月明りを浴びた先生の背中と波の音だけが白く淡く輝いている。先生は、振り返ることなくどんどん遠くへ行ってしまう。わたしは見ていることしかできない。
 もしも、その後ろ姿を呼び戻すことができたなら。どうしたって叶えようがないことはわかっている。わかっているけれど、その願いはわたしの胸をぎゅっと締め付けた。

 先生の先輩が歩みを止める。わたしも自然と足を止めた。慰霊碑の前だった。それは以前見たときと変わらず、厳かに輝いていた。

 ふいに先生の先輩が、慰霊碑に手を伸ばした。指先が、そこに刻まれたあるひとりの人物の名前をゆっくりとなぞる。その繊細な動作に、わたしの目は釘付けになった。

「お知り合いですか?」

「彼はね、M先生の高校時代の親友なんだ。今も、行方は分かってない」

 先生の先輩は、ほんの少しだけ表情を歪めた。苦しさを無理やりに飲み込んで、平静を保とうとしているようだった。言葉にならない感情がわたしの胸をかきむしる。

「どんな、人だったんですか」

「M先生とは、正反対だったよ。明るくて、自由で、怖いものしらずだった」
 先生の先輩の表情が、微かに柔らかくなる。
「彼といるときのあいつは、本当に、楽しそうだった。誰も寄せ付けないほど鋭く物事を考えることができたあいつを、唯一先回りして理解していたのが彼だったんだと思う」

 先生の先輩が、そっと、慰霊碑から指を離した。

「実は、最初からずっと教員になりたいって言ってたのも、あいつじゃなくて彼のほうだったんだ」

 先生の先輩の言葉を聞いて、胸がドクン、と高鳴った。わたしは思わず口を開いた。

「じゃあ先生は、その親友さんのために教師になったっていうことですか」

 本当のことは本人にしかわからないよ、と先生の先輩は困ったように唇を引き結んだ。
「そうですよね」とわたしも口を噤んだ。

「でもずっと、誰にも言えなくて、僕ひとりで思ってることがあってさ」
 先生の先輩はそう前置きをして、続けた。
「あいつは、誰も知らないところでずっと彼のことを探し続けていたんじゃないかな。最後のときも、きっとね」

 目を細めて海を見つめるその頬には、悲しみのあとが薄く残っていた。

 わたしは先生の先輩がなぞった名前を、あらためて見つめた。
 そのひとの存在がなければ、わたしは絶対に、先生と出会っていなかったのだろう。運命の残酷さが胸に沁みた。

 先生の先輩と別れたあと、わたしはひとりバスに揺られていた。他に乗客はおらず、埃っぽいにおいと、けたたましいエンジン音だけが車内に充満している。
 目的地は、先生と先輩が、そして先生の親友がかつて通った高校がある場所だ。

 災害の後、先生たちが通っていた高校は近隣の高校と統合され、廃校になったという。使われなくなった当時の校舎がそのまま残されているはずだと教えてくれた。

 そこへ行って、どうするのか。自分でもよくわかっていなかった。それでも、先生が幾度となく思いを寄せたであろうその場所に行ってみれば、先生の存在を感じられるかもしれないと思った。

 バスを降りると、草のにおいと蝉の声、それに暑い空気がひとかたまりになって、わたしの身体を覆った。

 バスの姿が見えなくなると、辺りはしんと静まり返った。左右を見渡しても、いま辿ってきた一本道が果てしなく伸びているだけで、他に車や通行人がやってくる気配はない。

 道路の向かい側に目をやる。先生の先輩が教えてくれたとおり、すぐそこに学校があった。肩にかけたカバンのベルトを握りしめて、そちらへ足を踏み出す。

 正門には、色あせたロープが三重に巻き付けられていた。ところどころ塗装が剥げ、赤茶色の錆びがついている。中央には、劣化して外れたのか、閂のあとだけが残っていた。せめて自分の身体が通れるくらいの隙間を開けられるだろうかと、門に手をかけ体重をのせてみるけれど、びくともしない。レールの部分も錆びついて動かなくなっているようだ。わたしは閂のあとに足をかけ、門のてっぺんにつかまると、一気に門を飛び超えた。地面に到達した両足が、じんじんと痺れる。

 ただ校門を越えただけなのに、こちら側とあちら側では空気がまったく違う。あっちは生きた世界で、こっちは止まった世界。この空気に閉じ込められたまま、わたし自身も時間に取り残されていきそうで心細い。

 校門の正面には三階建ての校舎があった。つる草が壁の一部を侵食し、じわりじわりと勢力を延ばし続けている。もうここの主は人間ではないぞ、と言われているようだ。校舎の右奥側には体育館があって、コンクリートの壁にひび割れを修復した灰色のあとが、機能を失った血管のように這っていた。

 わたしは敷地の奥へと進み、校舎と体育館の間を覗くようにした。向こう側に見えるのは、どうやらグラウンドらしい。膝の高さほどまでの草が一面に生い茂っていて、学校の敷地内でなければ手入れのされていない空地としか思えない様子だった。

 わたしはグラウンドの明るさに吸い寄せられるように、歩みを進めていた。

 グラウンドに足を踏み入れると、むき出しになった陽射しに全身を刺された。思わずぎゅっと目を閉じる。痛みが消えていくのと同時にまぶたをゆっくり開き、グラウンドを見渡す。

 すると、一面の緑のなかでひときわ鮮やかな黄色を放つ、大きな大きな花の姿がわたしの目に飛びこんできた。

 数秒間、息をするのを忘れ、太陽の眩しささえも忘れた。

 先生だ。直感がそう叫んでいた。

 いまはもう草原と化したグラウンドの真ん中に、先生は、ただひとりで立っていた。

 考えるよりも先に、身体が動く。わたしは草を踏み分け、先生のもとへ走り出していた。
 わたしの忘れられない先生は、一輪のひまわりになっていた。

 走りながら、わたしは先生の気持ちを想像した。大切なひとを突然失い、誰を責めることもできず、ずっと深い絶望や喪失感を抱えていただろう。だから、自己満足でしかないかもしれないと葛藤しながらも、それでも行動せずにはいられなかった。もしかするとそこには、後悔や罪悪感のようなものもあったかもしれない。誰も責められないから、自分を責めたかもしれない。傍から見れば先生が背負うべきではないものを、たくさん背負ってしまっていたかもしれない。
 わたしは足を止め、花を見上げた。

「ご無沙汰してます、先生。会いたかったです」

 風に身をまかせて揺れるその姿は、とてつもなく美しく、あまりにも寂しかった。空の青さも入道雲の白さも草の緑も、いまはただ、この花の存在を際立たせるためのものに過ぎなかった。

 理由なんてない、理屈なんていらない。誰がなんと言おうとも、このひまわりは先生なんだ。親友との大切な記憶がすべて置き去りにされたこの場所に、先生は戻ってきていたのだ。

 大切なひとを思い続けた結果、人間だったころの先生は海に連れていかれた。もう会えなくなってしまった。
 最後に会ったときに、日に焼けた自分の腕をもの悲しそうに撫でていた先生を思い出す。
 先生のやっていたことは、ただの自己満足だっただろうか。無駄だっただろうか。
 先生は愚かだっただろうか。
 先生は、先生が背負ってしまったものの犠牲になったのだろうか。

 いや、きっとそれは、ちがう。
 先生は、こんなにも美しい、花になったのだから。

 わたしは、目の前にいる先生をもう一度しっかりと見据えた。

 先生がずっと抱いてきた無償の愛を、こんなに美しい姿を、一体だれが否定できるというのだろう。

 気が付けば、大粒の涙が次から次へと溢れ出していた。先生の存在を感じられたことが純粋に嬉しくて、それまでの緊張や不安が涙と一緒に少しずつ溶けだしていく感じがした。

 この場所のことを、先生と、先生の親友のことを、わたしが忘れないでいよう。

 また、会いに来よう。来年も再来年も、ここに来よう。

 待ってるよ。
 そう、ひまわりの花が揺れたような気がした。

 了



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