【エッセイ】ふせんだらけの本
レジでそのお店のポイントカードを探している時、ふと国会図書館の利用者証明書が目に入った。
同時に、「卒論」という文字が浮かんだ。
卒論を書いていたのは、ついこの間のような気もするが、恐ろしいことにもうすぐ一年経とうとしているし、なんなら準備期間とか含めたらすでに一年以上が経過し、人が変わるのに十分過ぎるくらいの日数は過ぎたことになる。
「今」や「未来」を作っていく人たちは前を見て、過去を振り返らず進んでいるのだろう。実際に「過去は振り返っても意味ない」と言う人はたくさん見てきたけれど、わたしは過去を抱き締めて生きていきたい。過去の人が書いた物語たちが今のわたしを作っているから。
わたしの専攻というか、ゼミは古典中の古典、しかも卒論のテーマに選んだものがマイナー中のマイナーで、先行研究と呼べるものが二、三ほどしかなかった。それがマイナー好きのわたしを熱中させた。卒論は、わたしの人生の目標であった大学の、「集大成」。絶対に手を抜きたくなかったし、自分なりに少ない資料を集めたり、文章をまとめるのは単純に楽しかった。
ネットで論文が読める時代に産まれたものだから、最初のうちはネットでテーマに関連しそうな論文を読み漁っていたけど、それではやはり限度がくる。
そこで、ウワサの国会図書館に行ってみようと思った。が、国会図書館ってめちゃくちゃ敷居高い&神聖なイメージがあって、初心者が一人で行くのは不安だったので、めちゃ信頼ラブな友人に付き添ってもらうことにした。
国会図書館って、荷物はロッカーに預けて館内には透明の袋の中に最低限の持ち物しか入れちゃいけないのだけど、その子の透明な袋の中に入っている本を見て「わっ…」と、思わず数秒間見つめてしまった。
その子の卒論の題材は彼女の好きな作家さんの作品についてだということは前々から聞いていたが、その本にはびっしりふせんが貼られていたのだ。
彼女らしい、丁寧な貼り方で、色とりどりのふせんが、飛び出る部分が均等になるように貼られていた。聞いてないから分からないけど、たぶん色で意味を変えてたりしたんじゃないだろうか。本を見るだけで、それを大切に読み解き、愛でているのだなということが分かった。
わたしは、その状態の本を見た時、そしてその本を持つ彼女を見て、「この人は信頼していい人だ」と思った。もちろん、ずっと信頼していたが、よりそれが確固たるものになったのだ。彼女は、自分の研究に、好きなものに向き合ってる人だ、そう思って嬉しくなった。
文系あるあるなのかも知れないが、なんか文系って軽視されがち。それをしてなんになるの?のオンパレード。答えのないことを考えるのが学問なのに、答えを求められることが多過ぎる。
文系の学生って、日頃から「そういうの」に晒されて生きているし、「理系出来ないから文系で」って感じで文系に来てる人も多く、自信がなさがちな印象。
わたしは、それがまあ嫌で嫌で。「しょうがないから」って理由で仕方なく文学を学んで欲しくなんてなかった。
これを語り過ぎると「とりあえず大卒の称号が必要」になりがちな社会についてとかめちゃくちゃ大きな問題にぶつかるので、省くけど、とにかく「本気で文学やりたくて大学来たよ」って人に飢えていた(勝手に)。
彼女がもともと文学好きなのは知っているし、その「好き」の感じも信頼してるから、そりゃ当たり前に随分前から「本気で文学したい人」認定してるわけだが、それにしても、それがこうして、「本についたふせん」としてちゃんと目に見える「かたち」で現れたことが、わたしにとってはすごく嬉しくて嬉しくて、涙が出そうになった。
彼女が文学と出会ってくれてよかった。あの本も彼女に出会えてよかった。心の底からそう思った。
あれから、もうすぐ一年。しばらく国会図書館には行けていないし、なかなか予定が合わず彼女にもここ最近会えていない。だけど、わたしは、あの愛おしい過去たちをちゃんと抱き締めているから、今日を、明日を、生きていける。