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大江健三郎作『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』を読んで

この本にはいろいろな狂気に満ちた人が登場してきます。
どの人も、主人公の視点からの表現では、簡単に狂った人というよりはむしろ、外側からの圧力で、狂い始めた?のではなく、時代に反抗しつつけたという人間として描かれています。

狂気ってこの時代、(この本が書かれた1975年)に流行した言葉なのか。手元にある私の年表には、この年にフーコーが『監獄の誕生』を出版し、ベトナム戦争が終了している。
今はもう狂気なんていう言葉は見聞きしない。テレビとか新聞でもおそらく差別用語になっているのだろう、見聞きしない。狂っているなんて言葉も使わない。
ここに書き表すのも憚れるほどの、この『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』内で疲れる差別用語も、今ではすっかり聞かなくなった。
私は使わなくなった言葉には、もちろん大層な理由があることはわかっていいるが、物事の本質を突いている表現であるような気もしている。だからと言って使わないが。

私は『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』を読み終わって、この本を読んでよかったと自然と思いました。

これまでの人生で、頭に直線が何本もあらゆる方向に走るほど、嗚呼このままでは私は狂ってしまいそうだという、時間帯が何度かありました。(実は最近の私にも、それに近い気がしている。)
この本を読んでそんな時期を思い出しました。

傷を自分で見つけて、もはや自分で傷を作り、そこに肉芽を形成し、自己再生する過程を、『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』の中で感じ取ることができました。

狂っている自分を、
「近頃の私はどうも狂っているようです。」
と言える自分でいたいです。
入院させてほしいと言っているのではなくて、意味のない絵を描いたり、意味のない作業しては、もう一度0に戻すという作業を繰り返すことを、放っておいてほしい。

大体、意味のある、進捗があることだけをずっとしていたら、つまらなすぎますよ。と思います。


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