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【書評】『アスパラと潮騒』塚田千束歌集

医師としての職場詠、母としての歌が印象的な歌集。
医師としての歌では、職業柄、生死を常に身近に感じていることが非常に強く迫ってくる。
また、母としての歌は、子を産むことの明るく温かい側面よりも、暗い側の側面を炙りだすような歌が基調となっているのが特徴的。
どちらかというと、ほの暗い雰囲気がずっとある歌集であり、そこに独特の空気感がある。

ホーローの容器に蒸し鶏ねむらせて死とはだれかをよこたえること

誰ひとり死なない昼もあるようなアスパラを湯に放てば潮騒

作者の職業は医師ということもあり、「死」について作者なりの視点で詠んだ歌が歌集の中に多くある。
一首目は、2021年第64回短歌研究新人賞を受賞した「窓も天命」という連作の中の歌。
鶏肉を調理していて、「死」を連想する場面。
食材や飲食の場面で死を想像するという歌は多くあるが、この歌は下句の箴言・格言のような言い切りに象徴性がある。
ホーローの容器は棺のようであり、日常的に死を近くに感じる仕事をしている作者だからこその説得力がある。
二首目は歌集のタイトルとなった歌。
上句は、誰ひとり死なない、そんな昼はない、ということを逆に浮かび上がらせる。
身近ではなくとも、今この瞬間も誰かが死んでゆく。
今この時だと、各地の紛争や、災害も思い起こすが、そうでなくても病気や事故で人が亡くなっていく。
そんな時間に主体はアスパラを茹でている。
沸き立つ音が潮騒に聞こえ、遠くに思いを馳せている様子が美しく表現される。
上句と下句のギャップや、体言止めが効いていると思う。

のけぞった首筋に触れる恋人でも親でもないのに触れてしまえる

子を産みて母となるなら一切の望みを捨てよ、みたいに吹く風

クロワッサンばさばさたべて白衣からうろこを落とすよう立ち上がる

作者の医師としての日常や、育児と仕事を同時にこなす中での思いなどが歌に表れているものを挙げた。
一首目は官能的にも思える始まり方だが、恋人でも親でもない、の辺りから、
患者の首を触って触診している状況とわかる。
赤の他人の首筋にぱっと触れてしまえる特殊性をふと認識したような歌で、その特殊性を読者にも気づかせてくれる歌だ。
二首目は「みたいに吹く風」と軽くおさめているが、
「一切の望みを捨てよ」と常に言われているような社会だ、と作者自身が強く感じている。
医師としてのキャリアが、子を持つことによって左右されるということはやはり男性には圧倒的に少ないことで、
この現代においても育児をすることで不利になる、そんな状況を詠っている。こちらも非常に実感のこもった歌だ。
三首目は歌集の帯にも使われている歌。
この歌集には白衣が何度か象徴的に出てくるが、この歌もそうだ。
白衣は作者の鎧の役割を果たしているのだろうか。
慌ただしくパンを食べて、パンくずを、鱗を白衣から落とすようにして立ち上がる。
何気ないシーンだが、医師としての決意表明のような、覚悟を漲らせた歌のようにも思え、とても好きな一首だ。

目蓋なき瞳が我の内にあり生き抜くことを急かして止まぬ

燃えながら咲くわたしたち何度でも春はくるから目を閉じないで

この歌集には目、目蓋など、瞳が出てくる歌が多くて印象に残る。
一首目は歌集の巻頭歌。目蓋のない目が自分の内側から見ていて、その目が自分に生き抜くことを急かすという。
少し怖い歌だが、常に作者はその視線を意識しているのだろう。
生き抜く、にはただ漫然と生きるのではなく、毎日を懸命にやり切るという強さがあるように思う。
こんなに強烈なものを抱えて生きていくのはかなりハードだと思うが、
この一首でこの歌集の主体の姿勢や、生き方が伝わる力強い歌だ。
二首目は不思議な歌で、主体は花のようでもあるが、やはり主体自身なのだろうと思う。
ここでも「燃えながら咲く」と言っていて、全力で走るように生きている主体の姿が浮かぶ。
「死」を常に意識しつつ、それでも何度でも春はくると言う作者の強さがとてもいいと思う。結句も自分に言い聞かせているようだ。

一冊を通して作者の人生や生きざまが立ち上がってくる歌集である。
                    (2023/7 短歌研究社)

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