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【書評】『Turf』(ターフ)小林真代歌集

身体の底がほんわりと温かくなる歌集である。
震災のことなど重いテーマを内包しつつ温かな気持ちになるのは、全編に満ちるユーモアのある語り口調のためだろう。
そこに読者は安心し、信頼もする。
また福島県いわき市で暮らす作者だから描くことのできる気候風土も、この歌集の大きな特徴となっている。

材料と道具といつしよにごちやごちやのバックシートに眠つて帰る

天災とはかういふことだと言ふやうに二階の窓から廃材を投ぐ

隣家の解体作業の叱る声叱らるる声いづれも怒声

放し飼ひの犬がどこかで吠えてゐてやがて我らの視界に降る雪

靴のなかで何かを摑む足の指勾配の急な屋根に立つとき

と言いつつ、仕事の歌を読むのが好きなので、まず最初に挙げたいのは職業詠だ。
主体は建物工事の現場で身体を使う仕事をしている。
一首目、仕事帰り、同僚の運転する車のバックシートに仕事道具などがごちゃごちゃに積まれており、そこに一緒に乗って眠っている。
一日の仕事を終えてへとへとの主体。材料や道具と一緒に荷物として積まれているようでもある。
この一首だけで、過酷な、ちょっと荒っぽい仕事の様子が伝わってくる。
二首目、念頭には東日本大震災がある(一連には除染などの言葉も詠み込まれている)。
そういった天災を再現してしまうかのように、二階の窓から廃材を投げて下ろす。
三首目、隣の家でも作業が進められていて、親方だか先輩だかが叱る声も、それを受ける声もどちらも怒声だという。
大きな声を出さないと聞こえない、ということもあるだろうが、
応えている声も怒声というところに、気性の激しさ、荒々しさが伝わってくるようだ。
四首目は情景を描いた歌だが、一連の中にあって「我ら」は共に作業をしている仲間達である。
犬の姿はまったく見えず、吠え声だけが聞こえて、「やがて」見えるのが静かに降り始める雪だという「聴覚」→「視覚」の認識が面白い。
五首目は身体感覚が鮮やかに切り取られている。
想像はできるが、やはり実際に「勾配の急な屋根に立つ」経験をしないと出てこない上句だと思う。

炊いたごはんぜんぶおにぎりにかへてゆくおにぎりが一番元気が出る

震度6に怯えて逃げし石田さんの犬いまどこをにげてゐるのか

床の上に数多のCDサラ・ヴォーン、クリフォード・ブラウンも被災せり

あたしたち楽しかつたわね、マーサ。ぬばたまのグランドピアノ雨に濡れたり

演奏はできませんよと言ひしはずが言ふこときかないミュージシャンども

「橋はだめ」と言ひくれし人に順ひて坂道たどり子は帰り来ぬ

震災当日、またその後を詠んだ歌はもちろん多いが、そこにユーモアが足されることで、前向きな印象をまとった歌に目が留まる。
それは無理をしても明るい方へ向かいたい、という願いも込められているのだろうが、その絶妙な匙加減がこの歌集に温かさを感じる所以だと思う。
一首目は地震で帰れない学校の子ども達のために、おにぎりを作る場面。
下句のように考えて、炊いたご飯をすべて握ってゆくのである。
下句のストレートな言葉に、こちらも励まされる思いがする。
二首目はとてもせつない歌だ。怯えて逃げた犬に「もう大丈夫だから戻っておいで」と伝えることもできない。
「石田さんの犬」という言葉で、石田さんの気持ちをも想像してしまう。
三~五首目はジャズスポット・ターフで演奏していた主体を含めた仲間達の歌であり、この店は震災で天井が落ちてしまったのだ。
地震でCDが散乱したことを、まるでCDに収録されているジャズ奏者や歌手も一緒に被災したように捉えている。
マーサは主体の愛称。「楽しかったわね」と過去形で語られる言葉が辛い。
「ぬばたまのグランドピアノ」が黒光りするピアノの姿をよく表しており、ピアノが更に雨に濡れてしまっている情景をより強く想像させる。
しかしその後再び集まった仲間は、「ここでは演奏できない」と言われているにもかかわらず、聞いちゃいない。
その描写にちょっとやそっとじゃへこたれないミュージシャンたちの強さ、明るさを感じるのだ。
六首目は震災当日、海や川に近づいては危ないため、「橋はだめ」と言ってくれた人に従い、別のルートで子どもが帰ってきた、という歌。
日常を突如侵食してくる災害のことや、その瞬間の人々の行動、思いなどを、静かな口調で強く伝えてくれる一首だ。

初めての試合は小林VS小林うちの子は負けたはうの小林

お詫びとも言ひ訳ともつかぬことば並びて鰻値上げされをり

みそ煮込みうどんふくらむ鍋のなか少年は寒き顔を落とせり

作者のユーモアがいかんなく発揮されている歌も挙げたい。
一首目、「小林VS小林」の衝撃。ご本人には申し訳ないが、ここはやはり「負けたはう」であることが効いている。
二首目、昨今何もかも値上げ甚だしいが、鰻を値上げする理由が店に貼り出されているのだろう。お詫びではあるが、言い訳がましいのである。
三首目は情景が目に浮かぶ。「うどんがふくらむ」「顔を落とす」の表現がとても楽しい。

骨になりこの地に残るといふことのしづけさにけふの日が差してゐる

八重咲の白梅の庭あかるくてこの世のどこから見たつてきれい

夜が先か雪が先かと思ひつつカーテンを閉ぢ灯りを点す

アパートの廊下に残る三輪車寒そうで痛さうで蹴りたい

この土地で暮らす作者だからこその叙景の歌も美しい。
一首目は静かに日が差しているという小さな景だが、それを眺めて自分が亡くなった後、骨になってこの土地に残ることに思いを巡らせている。
「骨になって土地に残る」ということそのものが「静か」で、そこに日が差すという歌の構造に、イメージが広がる。
二首目は、とは言え自分はこの世に今存在していて、白梅を見ている。
「この世のどこから」と言っても庭の白梅はこの庭の小さな範囲からしか見えないのだが、白梅はこの世界の象徴のように明るく咲いている。
どこからこの梅を見てもきれいであるはずだ、という認識が力強く、少し悲しくもある。
三首目、雪があまり降らない土地に暮らす者からすると、「夜が先か雪が先か」と考えるところにはっとさせられた。
四首目はうら寂しい光景だが、結句で「蹴りたい」と転換するところに作者の力強さが表れている。
うら寂しい光景を主体自体がぶっ壊したくなったのだろう。

ご家族を詠んだ歌など、まだまだ挙げたい歌があるが、
読むと励まされるこの歌を最後に挙げて締めくくりたいと思う。

さびしいと詠ふこと今日はあきらめて明日の分の腹筋をせり

寂しい感情、悲しい感情を詠うことは多い。でも歌にできないときもある。
そんな時は腹筋をして寝てしまおう。私も真似をしてみたい。
へなちょこな腹筋なので、ろくに続かないけれど。
                      (2020/9 青磁社)

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