【書評】『weathercocks』廣野翔一歌集
生きている人と俄かにすれ違う花冷えていくクロスロードに
花束を分けて花束を持ち帰る夜道に掲げながら歩いた
冬の夜に遭えば驚く大男として真冬の夜をとぼとぼ歩く
様々な街で、言葉すくなに歩く主体が印象的な歌集だ。
卒業や就職に伴い幾つかの街で過ごした日々が、内省的な語り口で綴られている。
その中で主体は歩き続け、考え続けている人のように私には映った。
一首目。自分ももちろん生きているのだけれど、
誰もいないと思っていた通りで急に誰かと擦れ違ったことを、「生きている人とすれ違う」と捉える。
二首目。花束のリフレインが、花束の印象を強くする。
誰かのもらった花束を分けて、その一つを持ち帰るところだろうか。
おそらく「夜道に掲げる」つもりはなかったのだろうが、どうしてもそういう態勢になるのだろう。
まるでトーチを掲げているようだが、歌の雰囲気からは一人で歩いているように思える。
さっきまで賑やかだっただけに、それがなんだか寂しい。
三首目。寒い冬の夜に出会えば大男として驚かれるだろうと自認している。
そんな大柄の男がとぼとぼ歩いているせつなさ。
カレンダーに余白は多く少しだけ待ったらそこに朝焼けが射す
知らない街の写真を飾る知らない街はずっと夕暮の街でいるから
噴水は人の身長越えていき光を撫でるように消え去る
見えぬときそれは聞こえて流水はわれの歩みの下に巡りぬ
歌集の初めの方から引いた。時間に追われるように暮らしていたら見過ごしてしまうようなことを見過ごさず、小さなことにも詩情を感じている。
カレンダーの白い部分に、一定の時間になったら太陽の日差しが差すことを心得ていたり、
知らない街が夕暮れている写真を飾って、この街はこの写真でしか知らないから、すなわち夕暮れしかない街だと感じたり。
「噴水が人の身長を越えて」いくということは、主体は噴水が小さく噴き上がり始めた時からずっと見ているのではないだろうか。
その水が「光を撫でるように消え去る」という捉え方が美しい。
四首目は地下に流れる暗渠のようなものを想像した。
見えない時も音が聞こえる、ではなく、「見えぬとき」にこそ聞こえると言う。
聞こえるのは気のせいかもしれないが、主体は足の下に確かな水の流れを感じている。
春の闇含み静かな街のあり終電車より女降りにき
そういえばずっと叫んでへんよなあ長く使いし箸を洗いつ
転職のことを告げれば「また真似をした」と笑って友は詰りき
栞文でも少し吉川宏志氏が触れられているように、時折混じる文語がアクセントになって、一首を際立たせているように思う。
一首目の「にき」は、完了の助動詞「ぬ」の連用形「に」に過去の助動詞「き」がくっついて、
「~てしまった」という意味になるものだ。
「降りゆく」などにするより強い印象を残すし、「~てしまった」という意味をこの二文字で表せる。
二首目の「つ」も三首目の「き」も、他の歌と自然と並ぶことで、この一首の味わいを深めているようだ。
ジプシーと言いかけノマドと言い直す転居続きし生活のこと
作業員・廣野翔一、醜聞の特に無ければ赤だし啜る
整頓は不得手であれば眼裏に森を広げたままに整備す
主体の性格が表れていると思う歌を挙げた。
一首目。転居が続いてあちらこちらふらふら彷徨っているような暮らしを
ジプシーみたいだ、と言いかけ、
いや、この言葉は使わない方がいい言葉だったと気づいて、慌ててノマドという言葉を見つける。
ちょっとした言葉にも注意を払っている主体が浮かんでくる。
二首目は連作タイトルも「作業員・廣野翔一」という、その中の一首だ。
これはもう主体、というより作者と言ってよいと思うのだが、自分のフルネームを歌に出し、
「作業員」という言葉をつけることで、コミカルな雰囲気を醸し出している。
もっと具体的な職種や肩書でなくあえて「作業員」としたのは、少し自虐的なところもあるのだろうか。
そして醜聞は特になくて、赤だしなど啜っているのだ。
醜聞のないのは良きことと思うのだけど、どうも主体はちょっと物足りないようだ。
赤だしというチョイスも、人柄を表すようで絶妙だと思う。
三首目は仕事中の歌だが、眼裏に広げるのが森というところが、主体の大らかさのようなものを思わせる。
仕事をしている今、森は遠く隔たった場所にある。
トマソンのごとくとたまに思いつつ駅のホームの蛇口を過る
革命の起こらざる月無かりけむ指切るほどの紙をめくりぬ
小牧・長久手の間はやや遠く営業地域の外にあるぞ長久手
作者のユーモアを感じた歌。
一首目、トマソンという語を見てちょっと懐かしくなったので挙げたい。
コトバンクから引用すると、トマソンとは以下の意味である。
かつて、古い街並みを歩きながらトマソンを探して歩く、みたいなイベントに参加したことがあり(ビルの途中から出ている謎の外階段とか)、
この歌を読んで、ああ、懐かしのトマソン、と思ってしまったのだった。
ここでは、駅のホームの蛇口はちゃんと機能しているはずなので、決して無用の長物ではないのだが
主体にはその蛇口がとても違和感のあるものとして見えているのだろう。
おそらく使っているところを一度も見たことがないはずだし。
二首目はユーモアの歌として挙げていいのか迷ったが、
上句は歴史で習う、フランス革命時の「テルミドール9日のクーデター」「ブリュメール18日のクーデター」などからの連想かな、と想像した。
テルミドール、ブリュメールはそれぞれフランスの革命暦の月の名前の一つ(熱月、霧月)であり、その月に起こったのでこう呼ばれている。
でも主体は、いや、革命はどの月にだって起こってきただろう、と考えながら資料をめくっているのではないだろうか。
その発想が、私にはユニークに感じられたのだ。
三首目も、この二つの地名は失礼ながらセットで記憶されており、それは小牧・長久手の戦いがあったからなのだが
その二つの街は思ったより距離があるらしいぞ、と気づいた時の歌である。
エリア外で気づく、というのがいかにも現代的だ。
他にも祖父がなくなって実家へ向かう一連や安保法案にまつわる連作、恋の歌、コロナ禍の歌などたくさんの主題が詠まれている。
また、連作タイトルに英語が多いのも印象的で、目次のページからこだわりが感じられる。
様々に工夫があって、なおかつ静かな統一感を生み出している歌集である。
(短歌研究社 2022/11)