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ふと思った日記

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ふと思ったことを綴った日記です。ほとんど「むにゃむにゃ」という独り言です。へぼ俳句もついてます。
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#日記

なかなかに

一月中旬というのは、お正月も終わり、さらに寒くなっていき、もう少し経つと節分。 まるで、季節のブラックホールのように、イベント的、ぽっかり開いた時期かもしれない。 毎日の、震災とかのニュースを見ると、死は以外に近いところにあるのを感じることが多くなった。 そして、もっと言えば、死とは本当に外部にあるのだろうかと考えてしまう。 「死」とは、外部から、物理的にやってきて、強引に肉体を引き裂き、バラバラにすりつぶして、滅してしまうこと言うのだろうか。 本当の死は、外部ではなく

11月18日(日記)日記について考えてしまい手が止まる

どんよりとした曇り だんたん、書評とか追悼の文とか、感銘を受けた物事を紹介する文が書けなくなってきた。 というより、書きたくなくなってきた。 敢えて自分が書かなくても、このNote始め、世の中多くの人が的確で優れた書評を書いていらっしゃる。 自分は本当にただの印象とか、うろ覚えの記憶を辿って書くから、後から読んで違っていると思うことも多くなった。それだったら、アマゾンのレビューでいいのかもしれない。 そうなると、Noteってなんだろうと思ってしまうのだが、ブログって何?

10月29日(日記)水墨画をやろうかな

晴れ 昼下がり、秋の日差しが作るベランダの観葉植物の影を眺めていたら、急に情趣が湧いてきて、何だか無性に画(絵)を書きたくなった。 しかし、自分は何しろ画が下手で、テレビで「絵心ない芸人」などをやっているが、家族からも、もし番組があれば「絵心ない小説家」として、充分出られる資格があると言われてきた。 真剣に描いたのに、出来上がりを見せると必ず笑われてしまう。今でも、犬や馬を書いてみろと言われたら、みんな同じロボットのような絵になってしまうだろう。 そんな自分でも、絵画を

9月24日(日記)俳句を忘れて

最近、へぼ俳句(自由律俳句を含む)をめっきり作っていない。 というか、作れていない。 やはり、気分がハイテンション過ぎても、ローテション過ぎても、俳句をひねるって難しくなるかもしれない。 自分としては、心は平穏だけど、どどこかセンチで、感傷的な気分。そんなとき、外界の景色や、心象風景にふと心が動いたとき、俳句を作ろうかなというか、作りたくなる。 だから、ずっと部屋や宿などに籠もっていたり、一つのことに悩んでいると、俳句って出てこない。松尾芭蕉や与謝蕪村が旅をし続けたのは、

5月22日(日記)資格本を捨て続けてきた

晴れ いい天気 自分が資格を取ろうと思うとき だいたい、小説に行き詰まっているときと、今の仕事を辞めたいなと思ったときである。 自分の能力を試したい、会社を辞めたい、誰かに見下されたとき、人生にリベンジしたい、人が資格を取る理由はそれぞれだが、誰しも長い人生、司法試験とか、会計士とか、一瞬でも高難度の試験を受けようかなという思いが、頭がよぎったことはあると思う。 私の場合、取りたい資格のテキストを本屋に行って買ってくるまではいい(それがわくわくして楽しい)。 合格まで

5月11日(日記)赤ちゃんのように

晴れ 今年の五月は、ちょっと違うぞといった感じのいい天気。 久しぶりに、noteで記事を連続して上げているせいか、何となくテンションがあがってくる。 その昔、まだSNSなんてものがなかった時代。 当時、たまたま講演を聴いた有名な放送作家が、将来、何か自己表現をやりたいと思っている人は、まずは、「何でもいいから発言し続けること」と言っていたのを思い出す。 その人は、中学生の頃から、深夜ラジオのはがき投稿を始め、漫画雑誌の読者コーナー、新聞の意見、そして、公共機関のご意見

5月7日(日記)ずっとサザエさん症候群

雨 始まりの方は天気が良かったので、結果的にいいGWになった気がする(東海三県限定)。 今回、メンタルの調子を崩してわかったことの一つに、振り返ってみれば、小学校の時からずっとサザエさん症候群だったということ。 ちなみに、サザエさん症候群とは、 「日曜の夕方から深夜、翌日(月曜)からまた学校や会社に行かなければならない」という現実に直面して憂鬱になること。 それがひどいと、うつ病や、適応障害になりかねない。 らしい 最近、「行きたくないところには、行かなければいい」、

4月30日(日記)新たな五大聖人

4月の最終日 朝から雨 雨もまたいい。 まだ回復途上にあるせいか、フィクションの言葉が上手く頭に入ってこないので、読みかけの村上春樹さんの新作を中断して、道元の正法眼蔵を読みふける(これもフィクションと言えばフィクションだけれど)。 この長い書物を通読するのはもう何回目だろう。 苦しみにまみれる人間という生き物は、いったい、どうやったら悟れるのか(正法)を、時には修行方法、時には公案を使って、延々と説明されるのだが、やはり何度読んでも難しい。 ヴィットゲンシュタインを

4月25日(日記)俳句をひねれば

曇 気持ちがへたって、なかなか思考がうまく働かない中、なんとかnoteを再開してみて、いいこともたくさんあった。 その一つに、 俳句好きのフォロワーの方から、ライラック杯というnote上の俳句大会に誘われたこと。 自分としては、へぼ俳句(へぼ自由律俳句)のレベルなので、とても俳句大会なんてと思っていたが、いざ参加してみると、その俳句大会に参加している人たちから、俳句の感想とともに、ネガティブだった記事への励ましの言葉をたくさんいただいた。 それが、とてもうれしかった。

4月24日(日記)弱っているときの最適なBGM

曇 少し肌寒い。 本当に、心が弱っているときって、テレビやNetflixなど、うるさく感じてとても見ていられない。 しかし、まったくの無音も辛い。 そういったとき、最適なBGMがないかとつらつらと探していると、ベタだけど、ハワイアンがいいと思った。 ハワイアンってやっぱり心が落ち着く・・・。と思ったのも最初だけで、やがて沖縄民謡を聞いている時と同様に、どこか南国特有の哀しさ、歴史の苦しみみたいなものが感じられて、辛くなってくる。 そして挫折。あれは、もっと元気なときに

4月22日(日記)note再始動・・かな

春 暖かいだけで、気分がいい。 お金を稼ぐためと割り切っている反面、どこかでえり好みするのか、思ったとおりの仕事に就けずに、精神バランスを崩して、しばらく療養。 やはり、精神的に参っていると、心のうめきみたいな文章は書けても、人の目に触れるような文章はなかなか書けなくなる。というわけでnote更新も開いてしまった。 この苦しい療養中に、小説のことと、お金を稼ぐことについて、とことん考える、というか考えざるを得なかった。辛い。 やっぱり、これまで何とかごまかしてやってきた

3月20日(日記)池田晶子さんの全著作を読み終える

もうすっかり春 いろんな生き物が一斉に活動を始め、植物が芽吹く様子は、「春は醜穢な季節なり」と、マラルメだったかな?が言った言葉を思い出す。 ついに、池田晶子さんの全著作(29冊)を読破する。というより、してしまった。達成感よりも喪失感が多い。もう未知なる作品を読めないのかと。 これまで多くの人の全集を読んできたけれど、これほどの喪失感は初めてかもしれない。 今度は、出版年月日順に読んでいこうと思う。たぶん、こうして死ぬまで読み返し続けるんだろうな。 まずは、そのデビュ

3月6日(日記)意識のお世話

晴れ 春の到来はうれしいけれど、どこか気分が沈む。 それは、年々年を重ねるとごとにひどくなる。そのことを近しい人に話すと、 「春は難しいことを考えない方がいい」と言われた。そのとおり。ネガティブな思いは、さらにネガティブな思いに繋がっていくだけで、やがては、この世はネガティブな思いで出来上がっているとすら思えてしまう。 ただし、私もだてに年を重ねていないいっぱしの大人。無理矢理連鎖を断ち切る。考えないようにする。 しかし、実はそれはかなり高難度のことで、禅とか瞑想とかの、あ

2月1日(日記)瞑想ではじめて「怖さ」を感じる

晴れ 少し暖かい ヨガを取り入れた自己流体操をして、長い時間瞑想する。 これが、座禅だと言われれば座禅かもしれない。それはもう、どっちでもいい、ただのネーミングの問題である。 ヨガのポーズというのは、瞑想をするための準備体操に過ぎない。 ヨガのポーズだけを取り出して、ホットヨガとかいって、健康法とするのは中途半端な気がする。 瞑想も、身体のどこかが痛いとか、かゆいとかあると、うまく行かない。 瞑想に没入するためには、五感を含め、あらかじめ身体からの干渉を極力排除、低減さ