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ふと思った日記

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ふと思ったことを綴った日記です。ほとんど「むにゃむにゃ」という独り言です。へぼ俳句もついてます。
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記事一覧

隠棲、隠居、隠遁、そして・・・

このところ、何かことあるごとに、頭の中に隠居とか隠棲という言葉が、浮かんでくる。 我ながら疲れているんだろうなあ、と思いながらも、 それらを行った先人たちに思いを馳せる。 方丈記の鴨長明、徒然草の吉田兼好、良寛、種田山頭火、外国で言えばサリンジャー、等々。 彼らは、人里離れた山の中や川沿いに、小さな庵や草庵を結び、晴耕雨読の生活をし、そこで高雅な文章や詩歌や書を残した。 若い頃は隠棲の意味は知っていても、それを行う理由がまったくわからなかった。どうして、わざわざ人里離れ

iPhone16を待ちながら

ずっと使っていたiPhone10が、さすがに限界をむかえた。 画面全体がのげぞるように浮き上がり、本体と隙間ができてしまった。充電も、30分ぐらいネットを見ていると省電力モードになってしまう。 仕方なく新しいiPhoneを探す。すると、気がつけばもう世の中は16までナンバリングが進んでいる。ということは、マイiPhone10は、もう6年間使っていたということか。 iPhone10を買うまでは、毎年アップルの新作発表のときに、画期的な機能を聞くと、とにかく使ってみたくて、そ

かくしてすべては消去法に

自民党総裁選も終わって、お祭りのような騒ぎも一段落。 これだけ、総裁選が世の注目を浴びて、一種のセレモニー化したのは最近のことだっただろうか。先日の都知事選しかり。 どこか、かつては新聞報道だけだった、プロ野球のドラフトと似た部分がある。 自分が作家のせいか、選挙や、今回の総裁候補者などの政治家に対しては、ややひねくれた視線で見ている。というかあまり見識がない。 逆にSNSとかを見ていると、まあみんな、政治のことに詳しいんだなと感心してしまう。 政治理念や勢力図の話になると

俳句エトセトラ

どうでもいいことかもしれないけれど、 毎日、俳句(自由律俳句を含む)を最低ひとつは作るようにしている。 そしてなぜか一句できると、五月雨式に次々に作りたくなってしまう。 かつては、二十句連続で作った日もあった。 しかし、そのほとんどが不出来だ。だから、多くても三句ぐらいで敢えて留めることにしている。 このNote上でも多くの人が、俳句や川柳などを載せている。その中には、凄いと思えるような作品もある。 そして、そういった秀逸な作品が、世間一般に流布しないのが、残念に思うことも

週の始まりはずっと月曜日だと思っていた

最近、驚いたこととして、 ずっと、来週とは「月曜日」始まりだと思っていたこと。 それを指摘されて、それで、よくこの年まで生きてこられたと、我ながら呆れた。 しかし、これまで困ったことはなかった気がする。 言い訳だけど、世の中、学生時代、社会人時代ともに、実感として一週間というのは月曜日から始まる気がしていたし、そもそも日曜日を含む、週末という言葉の使われ方も変である。 「あーあ、明日は月曜日かあ」。 日曜日の午後になると、私のように学校や仕事に行きたくなかった人は、月曜日

かつて永平寺に居た?

お盆が過ぎると、急に季節が変わった気がする。 風の質が変わるというか、空気全体が入れ替わるというか。 些細な積み重ねが、ある日突然季節をがらっと変える。 とおもむろに、今回はベタな題名ですが、少し前まだ蝉時雨がかしましい中、福井旅行に行ってきました。 福井という土地は、自分にとっては近くて遠い場所といった感じで、はるか昔の家族旅行で、東尋坊や越前海岸で、カニを食べたというような記憶しかなかった。 その旅も、当然ながら永平寺にも行ったのだが、そうした薄らいでしまった記憶の

政治と文学

同じ言葉で成り立つ世界だが、 政治と文学は真逆のものだと言われている。 「政治」を簡単に言ってしまうと、「目に見える儲け(価値)の差配」。 「文学」を簡単に言ってしまうと、「目に見えない儲け(価値)の創造」。 こうなると、真逆ではなく、現実の世界では圧倒的に政治の方が強い。なぜなら、文学が作った現実的な儲けを、政治はすべて持って行くことができるからだ。つまり上下の関係。 では、果たして文学は政治の風下に立つのか。いや、それはあくまで現実の世界での話であって、非現実におい

作家は職業なのか人種なのか

梅雨入りした。 やはり、雨より晴れの方が良いかな。 ただし、一年のこのとき雨が降らないと水不足になる。 自然の仕組みとは上手くできたもの。 ところで、 どんな商売でも、職業が人を作ると言われる。 料理人は料理人らしく。魚屋は魚屋らしく。政治家は政治家らしく。そして、反社の人は反社らしく。 能を大成させた世阿弥は、弟子達に「自分の素性をまったく知らぬ人から、あなたは能楽師のようだと言い当てられたら、初めて本物だ」と常々言っていたという。 つまり職に対する、気構えがいつの

ぎりぎりの言葉

最近とても頭に残った言葉の一つとして、 「死なないためのルーティン」というのがあります。 それは、少し前にある不祥事を起こした俳優さんが、何かのインタビューの中で、サーフィンやスノボをかなり熱心にやられている理由を聞かれて答えたものでした。 この一言に目が留まりました。 私は、有名人に対しても、それにまつわるゴシップなどにまったく興味がなく、彼らが何をやろうが、どんな犯罪をしようが、文学的な関心があるだけで(それが少しやっかいだけど)、基本的にどうぞご自由にと、思ってい

雨上がりの空を見ながら

休日の雨ってわりにいいですね。 朝、カーテンを開けると、外は完全に雨。 とたんに今日は、あそこに遊びに行こうとか、行きたいとかいう思いが消えて、せっかくの休日なのにと、わかった直後はがっかりするけれど、どこかふんぎりがつく。 どこかほっとした気持ちで「ああ、今日は家に居よう」ってなる。 もちろん、昔は雨が嫌いだった。というより若い頃はみんなそうだろう。 もちろん今も、平日でが朝から土砂降りだったりすると、テンションがだだ下がりになるし、人生悲観的になる。 ただ、こうし

RPGゲームはもういいや

「暇な時に、何をしているか?」 実はそれがその人の最大の趣味だという話を聞いたことがある。 テレビをぼーっと見る。YouTubeを見る。寝ている。走っている等々。 人は、正面切って「趣味は何?」と聞かれると、面接に限らず、つい身構えたり、どう思われだろうかと考えたりしてから、答えがちになるのが普通かもしれない。 「スポーツ観戦」、「映画鑑賞」、「読書」。 それが、本当の心からの趣味ならばいいが、冒頭の原理からすると、果たしてそれは、その人の趣味なのか? 実のところ、人

なかなかに

一月中旬というのは、お正月も終わり、さらに寒くなっていき、もう少し経つと節分。 まるで、季節のブラックホールのように、イベント的、ぽっかり開いた時期かもしれない。 毎日の、震災とかのニュースを見ると、死は以外に近いところにあるのを感じることが多くなった。 そして、もっと言えば、死とは本当に外部にあるのだろうかと考えてしまう。 「死」とは、外部から、物理的にやってきて、強引に肉体を引き裂き、バラバラにすりつぶして、滅してしまうこと言うのだろうか。 本当の死は、外部ではなく

そろそろ隠棲・・・徒然に書こうかな

とにかく寒い。 しかし、この寒さがいいのかもしれない。 おもむろに、徒然草を再読する。 ときどき、無性に読み返したくなる。かつて小林秀雄が、「徒然草」はモンテーニュの「エセー」のダイジェスト版(ちょっと言い方が違うかも)と評したが、なるほど、似ているところがある。 つまり、「世捨て人」からの視点。 最近、○○したい。何をやろう、これをやろうと思うのだが、一日たつともう面倒くさいと気が変わることが多くなった。 こんなこと、わざわざ言葉にする必要がないのは百も承知だが、何と

11月18日(日記)日記について考えてしまい手が止まる

どんよりとした曇り だんたん、書評とか追悼の文とか、感銘を受けた物事を紹介する文が書けなくなってきた。 というより、書きたくなくなってきた。 敢えて自分が書かなくても、このNote始め、世の中多くの人が的確で優れた書評を書いていらっしゃる。 自分は本当にただの印象とか、うろ覚えの記憶を辿って書くから、後から読んで違っていると思うことも多くなった。それだったら、アマゾンのレビューでいいのかもしれない。 そうなると、Noteってなんだろうと思ってしまうのだが、ブログって何?