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4月30日(日記)新たな五大聖人

4月の最終日
朝から雨 雨もまたいい。

まだ回復途上にあるせいか、フィクションの言葉が上手く頭に入ってこないので、読みかけの村上春樹さんの新作を中断して、道元の正法眼蔵を読みふける(これもフィクションと言えばフィクションだけれど)。

この長い書物を通読するのはもう何回目だろう。

苦しみにまみれる人間という生き物は、いったい、どうやったら悟れるのか(正法)を、時には修行方法、時には公案を使って、延々と説明されるのだが、やはり何度読んでも難しい。

ヴィットゲンシュタインを引き合いに出すまでもなく、そこには言葉の限界がある。それは、サーフィンを知らない人にサーフィンの良さを、言葉で説明するようなものだから。

ただ、言っていることは分かる。サーフィンも悟りも、結局のところは、
「とにかくやってみて体感しろ」である。

ごもっともと思って、1時間ぐらい瞑想をする。その時間だけ、悟れたような気がした。現実には一度も、やったこともないサーフィンの良さも何となくわかった気がする。

釈迦、キリスト、孔子、ソクラテス。世で言う四大聖人。

こういう体感の後、自分としては、禅を完成させた道元をここに入れてもいいような気がしてくる(お釈迦様と方向性が被るのはご愛敬)。

たぶん、これからの時代は、禅を学び、禅を体得したものが、大げさでも何でもなく、新しい世の中を作り上げていくに違いない。直近でわかりやすい例は、利休のお茶。外国で言えば、スティーブ・ジョブス。(禅とアップルの製品(かつて)の関連性は、もっと研究されてもいい)

この国に限って言えば、旅客機や、ロケット製作もいいけれど、このところの打ち上げ失敗や、旅客機ビジネス撤退という事実からしても、西欧文明が長い時間を経て、何とか手にしてきた既製品を真似して売る文化は、さすがに限界が来た気がする(車だけは今のところ例外ですが)。

こうした模倣文化は、もういい加減卒業して、インドでも、中国でもなく、禅が唯一残りし、完成した日本において、この禅を土台にした、新たなオリジナルの○○を作ってもいいかもしれない。それはいったい何だ?と言われれば辛いけれど。

西洋の人が、日本に来たとき、京都の寺院、特に禅宗系のお寺を詣でたがるのは、あの空気感や、透明感、価値観、つまり東洋文明の神髄を無意識でも感じとりたいのだと思う。

その根底には、格差を止められない資本主義や、戦争を止められない民主主義に、どこか行き詰まりを感じているに違いないと思うのは、少しよがった見方かな。

道すがら つい触れてしまう 若葉かな










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