
一人旅 Episode-3 「世界文化遺産 長崎・外海の出津と大野集落」
1. 出津集落
出津教会
1571年頃から外海一帯にキリスト教の布教が始まり、一時は5,000人近い信者がいたと言われています。写真を見てわかるように、山間の集落です。
外海は大村城下から遠く、また出津や黒崎などでは比較的寛容な佐賀鍋島藩の飛び地が入り混じっていたこともあり、多くの潜伏キリシタンが存在していました。
「キリシタン」とは、キリスト教を意味するポルトガル語。学術的には、禁教時代の潜伏信者を「潜伏キリシタン」、1873年の信仰解禁後も教会に属せず独自の信仰形態を継承している人々を「かくれキリシタン」と区別しています。
出津教会の中を見学したい場合は、事前予約が必要。(後述の大野教会も同様)
こちら http://kyoukaigun.jp/visit/detail.php?id=8 からネットで予約できます。
時間通りいきますと、係の人が入り口を開け、待っていてくれました。
車を「外海歴史民俗資料館の駐車場(無料)」に停め、そこから出津教会まで歩きます。
階段や細い道を通りわかりにくいですが、高台にある教会を目指していけば必ず到着します。
周りに住む信者がいつも通るであろう道を歩きます。道脇の石垣が年代古く感じつつ、とてもきれいです。
一つ一つ丁寧に積み重ねられた想いを感じます。 教会前の石垣も自然と一体となり綺麗。
この石垣は、結晶片岩という平たい石で積んであります。
国は2012年、出津一帯を「長崎市外海の石積集落景観」として重要文化的景観に選定しています。
とても大きな教会です。この後、様々な教会を訪れますが、ここはそれらと比べても大きいです。
係の人に御礼を述べ、入り口から入ります。今のご時世、コロナ対策で、アルコール消毒とマスク着用が求められます。
また、教会内の写真撮影は禁じられています。ここはステンドグラスでないせいか、窓から明るい光が差し込み、とても明るいです。
木の柱と、木の机、木の祭壇、白い壁、丸みのある窓と大変温かみのある感じがします。
この後、紹介しますド・ロ神父が建築に携わった建物は随所に丸みある部分が多く、神父の「やさしさ」が感じられます。
伝説の日本人伝道師バスチャンは、長崎南部布巻出身。
ジワン神父の弟子となり、禁教期の外海で伝導していたが、捕らえられ、拷問にかけられた末、長崎で処刑されました。
バスチャンは処刑前に、4つの予言を残しました。
「今から7代後まで我が子(信者)とみなす」
「罪の告白を聴く神父が黒船に乗ってやってくる」
「どこでもキリシタンの歌を歌える時代が来る」
「異教徒に出会うと先方が道を譲るようになる」
外海の潜伏キリシタンは予言を信じ、海を眺めながら神父の再来を待ち続けました。
そして、1865年9月、フランス人プティジャン神父が出津を訪れました。
まだ禁教令が解かれていないので、かなり大ごと。しかし、多くの潜伏キリシタンが出迎え、洗礼名を名乗り、オラショを暗唱した。
(オラショ=ポルトガル語で「祈りの言葉」をoratioと言い、潜伏・かくれキリシタンが、口頭で伝承された祈りの言葉)
1878年、ド・ロ神父が出津教会主任司祭として赴任。
この後出てくる旧出津救助院でガイドしていただいたシスター曰く
「当時、集落には8,000人の信者がいたこともあり、長崎より司祭を派遣することになった」とのこと。
長い迫害が終わり、出津は穏やかな「祈りの里」になった。バスチャンの予言は成就された。
ド・ロ神父と旧出津救助院
出津教会から下ってくると、ド・ロ神父記念館と、旧出津救助院がある。
この出津集落における信仰並びに生活向上のうえで、ド・ロ神父は欠かせない。
まだキリシタン弾圧が続いていた1868年に死をも覚悟して 来日。
「隣人を自分のように愛しなさい」というキリスト教の教えを実践。
宗教を礎とした深い人類愛で、外海の人々のために力を注 ぎ、一度も母国へ帰ることなく、1914年に享年74歳で逝去しています。
ド・ロ度神父における「人類愛」は、この地の産業、救助、建物随所に見ることができ、ド・ロ神父のやさしさがよくわかります。
1879年、外海地区の主任司祭となった宣教師ド・ロ神父は、「陸の孤島」と呼ばれ、田畑にも恵まれない貧しい自然環境の中、長期のキリシタン弾圧にも耐えながら、信仰だけを頼りに貧しい暮らしをしていた人々を見て、「魂の 救済だけでなく、その魂が宿る人間の肉体、生活の救済が必要」と痛感。
まず出津に教会堂を建て、教会を中心とした村づくりを始めました。
また、「海難事故や病気で一 家の働き手である夫や息子を失った妻や母、仕事のない娘に働く場を」と願い、私財を投じて授産場、マカロニ工場、鰯網工場などの施設を建設。
織布、織物、 素麺、マカロニ、パン、醤油の醸造などの授産事業により、女性たちの自立を支援しました。
その授産場(製造工場)が、旧出津救助院。1階が工場現場。女性でもオペレーションがスムーズにできるよう考えて作られており、大変生産効率が高かったと思われます。
2階は働いていた女性の寝床兼祈りの場。
この2階には、100年以上前に作られ、フランスから運ばれた3体の像があります。
この像がなんの支えもなく置いてあるので、おもわずガイドしていただいたシスターに「地震とかで揺れることないですか?」と聞いたら、そういうことはなく、大丈夫らしいです。
そして、130年前フランスから取り寄せたオルガン、デュモン社製の「ハルモニュウム」といわれるもので、1本指でも和音が弾ける優れもの。
シスターが私しかいないのに、わざわざ1曲引いてくださいました。
やさしさしみる130年前から変わらぬ音。ナポレオン時代に作られたと言われる時計も健在です。時報もしっかり鳴りました。
ぜひ、出津集落にお越しの際は、出津教会だけでなく、旧出津救助院にてシスターとお話をして、ド・ロ神父の人類愛に触れてくだい。
出津集落でいたるところで、石垣をみることができます。
多くは、ド・ロ塀と言われ、100年前から健在する立派な石積塀です。
フランスで建築術も学んでいたド・ロ神父が、それまで石積の接合材として使われていたアマカワでなく、赤土を水に溶かし石灰と砂をこね合わせたもので接合することで、丈夫な塀ができました。
これも一見です。
建築術に長けたド・ロ神父は、大浦天主堂司教館の建築に携わりますが、ここで足場から転落。翌日死去しました。遺骸は出津に運ばれ、小高い丘にある共同墓地に埋葬されました。
貴族の出でありながら、その一生を信仰にささげ、28歳の若さで遠い日本に来ました。そして二度とフランスに帰ることなく、そのほとんどをこの外海にささげています。
貧民救済、人類を愛し続け、キリスト教の教えを実践し続けた。
それをずっと信者はみていたのだと思います。
そして自らも皆そう実践していく、そういう温かい集落なのです。
2. 大野集落
大野教会
出津集落から車で10分ほどのところに、大野集落はあります。
202号線をまっすぐ、大野教会のサインが見えたら、小道を右に入り、すぐ二股になっているので、それをひだりにはいりますと、駐車場が見えてきます。
駐車場は20台ほど停められる大きなスペース。
きれいなトイレもあります。
駐車場のわきから歩道の坂道を登っていきます。
結構疲れます。
ふたつ坂を登ると、教会が見えます。
ここも中を見る場合は予約が必要です。
(中には入れません。外から中を見るだけです)係の人が待っていてくれました。御礼をして、ぐるぐるまわりを歩きます。
大野教会は、巡回教会でとても小さいです。今では信徒数も少なくなったので、年に一度だけミサが行われているようです。
教会の正面にマリア像があります。この白亜のマリア像がとても印象的です。とても近くに感じられ、親しみやすいです。
また、マリア像の先に海が見え、とても世界の広がりを感じます。このマリア像はとても好きです。パチリ。
大野教会の外壁は、ド・ロ塀の技法による石積です。色合いがとても素敵です。国重要文化財指定もうなづけます。
南欧風な壁に、瓦がのり、和と洋の融合、デザインと機能の調和がとれた建築物として優れものです。
遠くから見ても、実に周りの景色に溶け込んでいます。オレンジ色の夕陽に照らされる様は最高らしいです(今回は見てないけど)
堂内は写真が取れません。柱もなくとてもシンプルな造りです。
しかし、出津教会同様、白い壁と木材、そして丸みのある窓が、温かみとやさしさを感じます。
外海キリシタンの移住とマリア様
大野教会から戻る道すがら、海を眺めます。角力灘です。
この先は五島列島です。江戸時代、外海では人口が急増し、食料不足になった。一方、五島は人が少なく開墾の余地があった。
大村藩と五島藩は、1797年、外目の農民を五島に移住させる協定を結んだ。移住者には多くの潜伏キリシタンがいました。
彼らは人目につかない場所に住み着き、細々と漁をしたり、山を開墾したりして集落を形成しました。
現在、五島には、50余りの教会堂があります。そこには、故郷を離れ、海を渡り、信仰を守り続けた潜伏キリシタンの思いが息づいています。
次の日、長崎から五島列島の福江島に渡りますが、ジェットフォイルで1時間20分。
かなりの高速で渡ります。しかし当時は小舟。とてつもなく時間がかかったのだろうと思います。
この後も、人目の使いない場所への移住が続きます。家族全員で。生きていくこと。生きるために必要な信仰。小舟で海を渡っていく潜伏キリシタンを想いながら、生きるということはどういうことか、改めて考えます。
ふと、大野教会でのマリア像を思い出す。とてもきれい。
そういえば、この外海そして五島の教会ではマリア像をよく見かける。私はほかの教会をよく見たことがないのだが、マリア像は必ずあったかな?
推測だが、潜伏キリシタンが残したものに、「マリア観音」「聖母子図」があり、マリア様信仰が根付いており、マリア像がおおく見られるのではないかと思う。
また、
「母は日本人にとって生きる支えや生涯の同伴者となっている」
「同伴者としての母は日本人の意識に深く根をおろしている」
と遠藤周作は「切支丹時代 殉教と棄教の歴史」の中で述べている。
マリア様のほほえみは優しい。疲れや苦しみが癒される。
1597年、豊臣秀吉の命で処刑された26人の信者「日本二十六聖人」が殉教した長崎にある記念館に一枚の絵が展示されている。
「雪のサンタ・マリア」である。
約400年前、イタリア人画家でイエズス会士であったジョバンニ・二コラオの指導の下、和紙に絵の具で描かれた作品。
絵はかなり破損しているが、やさしさが今でも伝わる。絵は、人知れず出津集落で受け継がれてきた。
この絵は、映画「沈黙-サイレンス-」でも使われている!
優しい母のほほえみは、迫害の中、潜伏キリシタンを慰め、励まし続けたことと思われる。
外海や五島のどのマリア像を見ても、そう思うのである。