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《暝想と武道》
瞑想と武道を結び付けられる事が出来たとしても、結構肩身の狭い思いしていることでしょう。
その理由は、達人達が「分かる人には分かる」というスタンスだったからなんだろうということが、合気道の開祖、植芝氏のお弟子さん達のエピソードを読んでも推測できる。この頃の合気道の修練には瞑想も含まれていたようです。
お弟子さんのひとり合気道の五月女さんの著書「伝承のともしび」の文章にこういう記述がある。
「『〜肛門部と尾骨のところから火の玉のようなものが背骨を通り〜』これを師の植芝氏に報告したところ『誤解されない為に内緒にしておきなさい』と忠告された」(「伝承のともしび」より引用)
この現象は気功では「衝関」という。
「衝関」は、瞑想をすれば万人が経験出来るものではない。しかし、必要不可欠でもない。
五月女氏も書かれていますが、経験すると他人と強弱を争うこと論破することなどは、ムダなことと感じて好まなくなるようです。
人格と技が変わる。
このことは、「弓と禅」の著者オイゲン・ヘリゲルも、著書の中(p146)で師に指摘されています。
他人からは別人(優しくなった、ほがらかになった等、良い意味で)に見られるようです。
また、中村天風氏も瞑想のなかで「絶対のしじま」という境地を体感するにつれ、当時の不治の病が回復し始めたと書き残している。
こういう体験は、凡人には無理だと思われがちですが、確かに言葉にすると何だか雲の上の存在のようだが、実践はそんなに苦行ではない。
肉体を整えることと呼吸を楽しみ、氣という概念に素直になればよいのだ。
一部の知識人を除いて誤解される時代は終わったと思う。