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死ぬことを恐れない男

ある昼下がり、俺は駅に立っている。
未曾有のウイルス災害によりテレワーク続きだった会社も、徐々に出勤となった。
しかし時差出勤とやらで俺はこの時間に会社に向かうことになったのだ。

午前にリモート打ちが無ければ昼前まで寝れることは嬉しいが、逆にそんなに長く寝てしまうと今度は起きることがしんどくなる。
それが俺にとっての最近辛いことだ。

瞼が重い。欠伸が出る。
電車はまだ来る気配がない。

ポカポカの春というか、もう初夏の陽気が身体に纒わり付く感じがして、酷く不快だ。
要は暑い。
俺はジャケットを脱いで腕にかけた。

『ただいま、埼京線は人身事故の影響によりダイヤが乱れております』
発車標に流れる、無情な文字。
合わせて流れる、有情なアナウンス。

俺と同じ考えの人でもいたのだろうか。
この時間に人身事故なんて。

俺は、いつ死んでもいいと思っている人間だ。
今、ここで誰かに押されて電車に轢かれたって、仕方ないと思って受け入れられる自信がある。
会社に着いた途端、心臓がピタリと止まってもいい、恨みを買っているであろう後輩に刺されたっていい。
つまり、死に関心が無いのだ。

人間、生きることに意味を失ったら終わりだと思うが、俺はもうその終わりに近づいてきている。
死に対する恐怖が無くなってしまったのだ。

携帯の画面を見る。
ロック画面で笑う、娘の愛花(まなか)。
まだ5歳。

ホーム画面を開くと、妻の葉月(はづき)と娘と3人で行った一昨年の春のピクニックの写真。

俺はこの未曾有のウイルス災害によって、
妻と娘を失ってしまった。
いや、正式に言うと、失いかけている。

テレワークが続き、家に居ながら仕事をしていたが、休みの日も妻の家事を全く手伝うことなく疲れた、と言ってダラダラとし、毎日家事をしてもらうことが当たり前のように過ごしていたことが原因。

いつも笑っていた妻は、隠れてとても疲弊していた。
それに気付けなかった。
ある日の朝、急によくあるセリフの手紙を置き、
娘と共に消えた妻。
「実家に帰らせていただきます。こちらには帰ってこないかもしれません。ごめんなさい。もう疲れたの」
それが、ほんの1週間前。

こんな旦那失格の俺には、人間として生きている意味なんてないのさ。

洗濯も自分でしたが、シャツのシワの伸ばし方が分からなくて、今日もよく見たらシワが酷い袖のシャツ。
自分のことも自分で出来なくなったこんな俺に
生きている価値なんてないのさ。

だから俺は死が怖くない。
だからこの人身事故を起こしたようなやつも、
俺と同じような何もかもを失ったやつなんだろうな。と、勝手に共感している。

15分程遅れて、間もなく電車が到着するとのアナウンス。
ようやく来るか。

俺も、飛び込んでしまおうか。
ふと線路を見る。

なんて。

そんなことよりまずは会社に連絡が先だな。
人身事故の影響で少し遅れますって言って、着いた先で遅延証明も貰わないと。

俺はもう一度携帯を出す。

その時、階段を上がってきた女子高生が、
携帯を見ながら近くまで歩いてきていた。
並んでいるこちらに全く気付くことなく、
一直線に歩いてきた。

つまりどういうことか?
こういうことになる。

ドンッ

彼女は俺にぶつかったのだ!!

「うっわ!??」

持っていた携帯が線路側に吹っ飛ぶ!!
条件反射で俺はそれを取ろうとする!

待っていた黄色い線を超え、ホームドアが無い境目へ飛び込む!!
この間、無意識。
減速しているとは言えど、勢いよく迫る電車!
ものすごい轟音のクラクションと聞こえる悲鳴!!!!

「え!?うわあああ!!助けてぇぇえ!!!」

俺は目を閉じた。

グイッと腕が引っ張られて、俺は黄色い線の内側まで戻って尻もちをついた。
目の前にゆっくり電車が止まる。
間一髪。

「何してるんだ!危ないだろ!!!」

腕を引っ張ってくれた駅員に怒鳴られる俺。

「はっ…はい…すみません…」

ぶつかってきた女子高生は、遠くに走って逃げていた。
そいつに怒りを覚えるよりもまず先に、俺は力なく笑って、涙を流した。

「なんだ、俺…まだ怖いんじゃん…」

咄嗟にでた情けない「助けて」が頭の中をループする。
電車と段差ギリギリの所に落ちている、自分の携帯の画面はバキバキになっていた。

「まだ…生きていたいんだ…よかった…」

出てくる人に気付かれず踏まれる携帯を拾って、駅員に謝り、ホームの椅子に座る。

バキバキだが使える携帯の中で微笑む愛花。

会社より先に、電話をかける。

「もしもし、葉月。ごめん、俺です。謝りたいことがあります。お時間いただけたら嬉しいです」

留守電に残して、俺はまたため息をつく。

まだまだやり残したことがきっと沢山ある。
1個1個見返して、俺はまだまだ生きなければならない。
いや、生きていたい。

そしてそのまま俺は、会社に電話をするのを忘れてまた、怒られるのだった。

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