怪獣映画を解読せよ!:『マタンゴ』ネオンサインと毒キノコ
⚫︎怪獣映画を解読せよ!『マタンゴ』ネオンサインと毒キノコ
『マタンゴ』(1963年・東宝)
監督:本多猪四郎
脚本:木村武
原案:星新一、福島正実
出演:久保明、水野久美、小泉博、佐原健二
ネオンサインが街の夜を彩る様になったのは1920年代からだそうだ。今では珍しくなくなったネオンサインを最初に見た人々は驚きをもって眺めただろう。
ネオンサインは夜の都会の顔となったが、ネオンサインは広告として、あるいは看板として機能するもので暗闇に光を与える実用性は持たない。
派手で目 立つことが要求される誘いの光である。だから、それはガス灯や水銀灯の光とはまた違った妖しい光を放つ。誘蛾灯の様に人々を誘う夜の街の享楽の道しるべでもある。
そのネオンサインの数だけ都会は消費の発展の象徴としてのバロメータにもなるかもしれない。
ともかく、目立つこと、人を引き寄せることを要求され るネオンサインは人々を誘惑しなければならない。
派手であれば派手であるほどその効果は増大し、そのネオンサインの重なりがサイケディックで猥雑な姿を街 に与えている。
「ネオン街」という言葉が時折り「色町」を指すこともネオンサインの猥雑さを示している様に思う。
ネオンサインの下には豊かな食糧があり、 人を酔わせる美酒があり、女性たちの怪しい誘惑が溢れている。
そこに誘われて集まる雑多な人間の種は一つの無統制な集団を形成する。食欲と性欲を満たしてくれる快楽と共に、それを補う美酒。
ネオンサインは享楽と猥雑の象徴なのかもしれない。
またネオンサインは消費社会の乱雑さが人間を飲み込む「誘蛾灯」とし ての象徴なのかもしれない。
こういうゴミゴミした人間交差点の上に輝くネオンサインの下に長くとどまれる訳もない。
しかし、ネオンサインが灯る一夜の快楽 は甘美で魅惑的だ。
山本薩夫監督の映画『不毛地帯』で道頓堀のグリコのネオンサイン、官能的な女性を描いた看板を重ね合わせたカットに、壱岐正の疲れた表情のオー ヴァーラップは壱岐が抑留されていたシベリアの荒漠たる真っ白い雪原と対照をなしていて秀逸な場面だった。
そんな雰囲気を漂わせる怪獣映画が存在した。
⚫︎マタンゴ
時代と社会に抵抗し葬られる日本舞踊の家元とガス人間を描いた映画『ガス人間第一号』の脚本を手がけた木村武の最後の傑作が1963年8月に公開さ れた東宝映画『マタンゴ』だ。
以後、木村武は馬淵薫というペンネームに改名し、5本の東宝怪獣映画の脚本を手がけたが、本来の反社会的抵抗のメッセージは すっかり失われたようだ。ペンネームの改名には何か方針の転換があったのかもしれない。
映画『マタンゴ』は無人島の新種のキノコ「マタンゴ」を食べると、食べた人間の体にキノコが生え、最後にはキノコ人間になってしまうという設定。怪獣映画というよりも恐怖映画の趣きが強い。
テレビで初めて放映された時は『マタンゴ』では怪獣好きの子どもたちにはアピールできないためか、新聞欄には『恐怖の毒キ ノコ怪獣・マタンゴ』というタイトルで掲載された。
第二次怪獣ブームで日本中の子供たちが怪獣に夢中になっていた1970年頃だ。
当時、これを観た子供た ちは相当なトラウマを持ったようで「大人になっても椎茸が食べられない」なんて話はよく耳にしたものだった。
さて、この『マタンゴ』はウイリアム・ホープ・ホジスンの古典的幻想小説『闇の声』を原作(原案)にし、SF作家の福島正美が潤色した原作小説を書いた。
オブザーバーとして星新一も名を連ねている。
物語は都会のゴミゴミした世界から抜け出そうと、一人を除いて社会では比較的高い階層に属する男女七人が休日にヨットで海に出る。ヨットは嵐に遭遇 し漂流を余儀なくされる。幾日も流されたのちに無人島に漂着する。
そこには原爆実験の調査のためらしき船の残骸があり、七人はここで生活を始める。島には ほとんど食べるものがない。
難破船にあったわずかな缶詰を分け合いながら生き延びようとするも、やがて彼らの間には飢えと情欲が支配し始め、食料と女を奪 い合うようになる。
秩序は崩壊し、一人また一人とジャングルに姿を消してゆく。
ジャングルの中にはキノコが群生している。毒キノコであると難破船の航海日誌に書かれていたにも関わらず、彼らの中にこのキノコを口にするものが増えて行く。
キノコを食べると体にキノコが生え、やがて怪物マタンゴになってしま う。
キノコを食べると麻薬の様な効果があり快楽と幻想に捉われる。一度口にしたらやめることができない。メンバーの一人、大学で心理学を教えている村井は 最後まで自制心を持ってキノコを食べないが、最愛の恋人までもがキノコの虜になり、救い出すこともできず怪物たちから逃れ出て、再びヨットで脱出を試み る。
映画はたった一人の生存者である村井の独白で始まり、独白で終わる。
村井は精神病院に収監されていて、その体験談を医師たちが聞くという設定であ る。
ロベルト・ヴィーネの古典表現主義映画『カリガリ博士』の影響が感じられる。福島が書いた原作小説も精神病院で始まり精神病院で終わるが、小説では白壁の病室であり、医師たちはのぞき窓から患者を観察している。
医師は村井が壁に向かって話している独白を聞いているということになっている。
病室の窓の外には濃い霧が立ち込めていて、その霧の様子は小説の最後にも描写される。福島の精神病院のイメージは山間部の社会から隔絶された場所であったに違いない。
しかし、映画は違っていて、都内の「東京医療センター」の精神科病棟となっている。巻頭で精神病棟の窓から見た街の風景が映し出され、それに都会の無機質 な雑音が被さる。そこにはネオンサインが毒々しく輝いている。
病室は陰気な深緑の部屋で監獄の様に鉄格子に守られているのだ。そこで村井は囚人服の様なグ レーの患者衣を着せられて、一人窓の外のネオンサインを観ながら医師たちに背を向けたままで回想するのだ。
村井の信じられないような奇談の独白が終わるとカメラはゆっくりと窓の外の毒々しいネオンサインを捉えたまま終幕となる。都会の騒音を被せながら。
⚫︎マタンゴの島と都会の間に
『マタンゴ』は社会の秩序と規範に縛られた、村井の言葉を借りれば「みんな人間らしさを失って」いる世界にちょっとした抵抗を試みた若い男女の顛末を描いた物語である。
昼間は社会の構成部品として働き、夜はネオンサインに惹かれて彷徨う。その繰り返しに対して抵抗を試みた……しかも休日という社会 が決めた規範の一部の枠のなかで……その方法はヨットによる脱出であり、嵐というアクシデントから無人島へ漂着する。
たった一人生き残った村井はまたネオ ンサインが取り囲む精神病院に閉じ込められてしまう。
自由と享楽を求めた冒険の船出は結局はまた管理された社会に戻らざるを得ない残酷な運命が待ってい る。
無人島には管理も秩序も無かった。そこにあったものは生きるための闘いであった。あれほど逃げ出したかった社会からやっと脱出できたのに、管理された 秩序に再び戻りたいと願う七人の矛盾した抵抗がそこにある。
しかし、村井は最後に言っている。帰ってきて狂人にされるよりもあの島でキノコになって暮らせ ばよかったと。東京もあの島も同じではないかと……。
「郷に入らば郷に従え」とばかりに無人島ではキノコを食べて人間でなくなることがマタンゴの社会への参加であったということである。
村井はキノコを 食べずに無人島の秩序と管理にも背を向けた。
キノコを食べれば快楽も得られる。そこにもネオンサインが存在したのだ。人間社会にもマタンゴの社会にも抵抗 した村井が最後に収監されたのは鉄格子の精神病棟なのだ。
毒々しいネオンサインの東京にも毒キノコの無人島にも属することはもはや村井には出来ない。
この 社会秩序の抵抗の結果としての牢獄は『ガス人間第一号』で藤千代が収監された留置所、終幕で藤千代とガス人間水野二人だけが閉じこめられたホールと同じも のである。
「僕は食べなかったんです、一握りも」と言って振り返った村井の顔はどす黒いキノコの起伏によって顔が歪んでいるというオチが最後についている。
村井は結局、都会の人間社会にも無人島のマタンゴ社会にもその抵抗を貫徹できなかったのだというアイロニーが観るものに衝撃を与える。
福島正美の原作小説通りに、霧で始まって霧に終わっては『マタンゴ』は凡庸な幻想怪奇映画で終わっただろう。
しかし、ネオンサインに始まりネオンサ インに終わる映画では管理社会への抵抗という主題を明確にしている。
人は管理とネオンサインの中で蠢き、その閉塞した空間に抵抗してもそこからは脱出でき ない。『マタンゴ』は『ガス人間第一号』と同じ抵抗へのペシミスティックな視点に立っている。
ガス人間水野の「僕たちは絶対負けるものか」という最後のセリフには官憲たちが取り巻くホールを焼き尽くす紅蓮の炎を。
村井の「東京だって同じじゃ ないですか。みんな人間らしさを失って」という最後のセリフにはネオンサインを。
悲観的で絶望的だが木村武の抵抗の対象ははっきりしていた。
それは、私たちが最も親しんでいるはずの、ネオンサインが燐光を放つ、この社会そのものなのだ。
そこへ抵抗し、逃亡しながらも、人間は逃れられない社会でしか生きることができない。
マタンゴの島がそうであったように。
ネオンサインが都会の不夜城の夜にゆれ、マタンゴの島ではキノコの燐光がゆれている。
今宵も、明晩も、そしてその次の夜も……。