主観的生活からの脱却
最近色々勉強してるけど楽しいと思っているのは宗教哲学。
その中でも今は親鸞についてちょっと勉強してる。というのも大学でめっちゃ楽しかった授業を担当してくださっていた先生が主宰の読書会に参加させてもらってるからで、自分の中で興味のあることを突き詰めて考えるのってすごい楽しい。
ここ最近は「志」について話すことが多くて
そもそも志ってなんぞや?みたいな部分からいやでもその解釈は……みたいな方に脱線していったりする。自分の使ってなかった頭の部分フル回転にしてる感覚が心地いい。
今回の志についての解釈は「今それを持っているかどうか」、「日々の生活で日常にどう取り組むのか」が大きかった。
この志について考える前に「愚鈍」という言葉が挙げられていて、自分の中の感度が鈍くなること、自分の中の問題に気づけないことがそういうことらしい。
新鮮さが消える瞬間それは愚鈍になる
この愚鈍についての考えで自分にも当てはまるなと感じられたのは、今の生活とか仕事とかで(面白くないなぁ)とか感じて周りの環境が悪いとか思ってしまうと自分の中の成長は止まってしまう。みたいなことで、どこかに向かっていた志もいつの間にか「行先不明正体不明」の謎のものに変わっていってしまうんだなということ。
愚鈍から抜け出したいなら?
じゃあどうすればその自分視点、他者に依存している主観的な生活から変えられるかというと、それは「自分を取り戻せる言葉」に出会うことなんだそうな。
自分を取り戻すというのは成長の過程で「今の自分が立ち止まっている、座り込んでしまっている」と自覚できないとそもそものスタートすら出来なくなる。
その瞬間を気づけるかと言われるとこれって凄く難しい。
財布を忘れたり鍵を落としたりすると慌てふためくけれど、自分を見失うことには意外と鈍感になってしまう。そもそも失っていることに気がついていない可能性だってある。
この「失ってしまっていた自分」に気がつくことでまた成長に向けて進む「道」が作り出されていく。
現状に新しさが無いと思ってしまうのは座り込んでしまっているからではないか?そう考えると自分を見つめ直したくなってくる。
自分探しの旅に行かなくても自分って案外近くにいるっぽい
自分を見つけられた言葉をどれだけ持っているか、それが「自分が生きた証」になっていくのかもしれない。
周りの環境を変えるためにはまず自分から変わっていかないといけない。もし周りが変わったと感じたならそれは自分が変わらずに自分を失ってしまった証である。これすなわち「愚鈍」
愚鈍な自分から新鮮さを楽しめる、新鮮さを知覚できる自分に変わるには自分を囲む枠からの解放が必要なのではないかと感じた。
自分を囲んでいると認識している枠組みの外側から、メタ的な視点から自分を観察することで今の自分はどうなのか、立ち止まっていないかを再確認できるようになる気がする。
とりあえずもっと本読もう。
こんな感じの振り返りって需要あるんかな。とか思ったけどとりあえずこの振り返りnote定期的に更新しよっと。