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「死人は無敵だ」論と坂口安吾の「堕落論」から見る、「27クラブ」「ダブリンの市民」そして「春琴抄」について

1.「死人に口無し」の別の意味について

(かなり古い漫画の話題で恐れ入ります)高橋留美子作の漫画「めぞん一刻」の序盤で、主人公の五代裕作がこんな独白を行ったシーンがあった。

生きていれば…… いろんな欠点も見えてくるだろう。でも死人は無敵だ。
彼女の中で理想像が増殖していく。

(めぞん一刻)

アパートの管理人、音無響子に一目惚れをした五代裕作。自分の最大の恋敵は現在生きている者ではなく、故人である音無惣一郎氏であったことを知った時の独白である。

音無惣一郎氏が生きていれば、音無響子が一緒に生活をするにつれ嫌な面もどんどん見えてくるだろう。実は足が臭くてケチでギャンブル好きで、無類の女子高生好きだった、という可能性は十分あり得る。だが亡くなってしまえば、悪い側面はその時点で見えなくなり、それ以上増幅されることは無い。

「死人に口無し」とは通常、死んだ人にはいくらでも罪を着せられるという意味で使われる諺だが、その逆のニュアンスもあり得る。死人に対しては、生きている者が勝手にその理想像を好きなだけ膨らませることができる。

昭和のエレジー(死者を悼む歌)として有名な沢田知可子の「会いたい」の歌詞では、「死んだ恋人がもしここにいたらどんな優しい言葉をかけてくれただろう」というポジティブな妄想のみが膨らみ、ネガティブな事実は死んだ時点で膨らむことを止め静止している。

基本的に人は皆、死人には優しい。死人に厳しいのは、ジャニー喜多川氏の事例然り、生前の悪事が新たに発覚した場合のみである。

2.27クラブが不滅の光を放つ理由は坂口安吾の「堕落論」に書いてあった

少し話が変わるが、27クラブのロックスターたちが死してなお伝説として輝き続け、場合によっては死後の方がより評価が高まっているのは、27歳の絶頂期で時が止まったままだからだ。

彼らが27歳以降も生きていれば、中には幸せな家庭を築き余生を静かに暮らしている者もいれば、片やアル中になったりホームレスになった者もいただろう。前者であればまだ良いがもし後者のように、絶頂期のイメージとは全く変わり果てた姿を目の当たりにした場合、我々はどのような反応をすれば良いのだろうか。デビッド・ボウイのように年をとっても格好良く反骨心を貫いたスターも存在したが、片やロックスターとは真逆のポップアイドルと化し、観衆からの幻滅を誘うスターが多く登場していたかも知れない。「あのスターは変わってしまった」「ポップアイドルに成り下がった」と。

上記のモヤモヤとした考えをわかりやすくズバッと指摘してくれるのが、坂口安吾の「堕落論」である。内容は凡そ以下の通りである。

  • 人間は長く生きれば、光り輝いていた頃から徐々に堕落していく。

  • 赤穂浪士の志士を処刑したのは、志士が長く生きながらえ、生き恥をさらないようにしたためである。

  • 軍人の妻で未亡人となった者の結婚をしばらく禁じ得たのは、時期がたてば不倫をしてしまうためである

  • 二人の君主に仕えるな、それなら潔く死なば諸共一つの君主に仕えよという武士道の教えは、こうした規律でも作らない限り、人はやすやすと他の君主に鞍替えすることを見越していたためである。

「従来人の気持ちは移ろいやすい。人間本来の行動・思考特性にそぐわない旧来の価値観に縛られるな。一度人間の本性というものに立ち返って堕落してみよ」というのが坂口安吾が述べる堕落の意味である。それはさておき、赤穂浪士然り、亡き夫を想う未亡人然り、その時点で時間が止まっている限りは光り輝く美しい話になる。源義経の生き様が今も心を捉えてやまないのは、若くして非業の死を遂げたからだろう。もし、義経がその後命からがら逃げて遂には源頼朝を倒し権力の座についていたりでもしたら、義経のイメージは大きく変わったであろう。

3.「ダブリンの市民」の「死せる者たち」と「痛ましい事故」から見る、光り輝いていた頃に死んだ者とその後生き延びた者の違い

では、光り輝く中で死んだ者と、その後生きながらえた者はその後、生きている者たちの中でどのような存在であり続けるのか。その対比について描写されているのがジェイムズ・ジョイス著「ダブリナーズ(ダブリンの市民」の中の2つの物語「死せる者たち」と「痛ましい事故」である。

「死せる者たち」では、生者の心の中で今も生き続ける一人の若者が登場する。主人公と思われる夫妻のうち、妻は物語終盤にとある古い歌を耳にしたことで、10代の頃自分を好きでいてくれた病弱な男子のことを突如思い出す。その男子は若くして結局死んでしまったのだが、その妻の心の中には今でも生き続けている。そして今回の「歌」のような出来事をきっかけに、常に妻に思い出される存在であり続ける(そして隣にいる夫は言いようもない嫉妬を抱く)。

一方で「痛ましい事故」では、光り輝くイメージを失った後も生き続け、そして題名の通り痛ましい事故で亡くなった人妻が描かれている。主人公の男はその恋人(というか不倫相手であり、人妻)と街中で出会い、いわゆる肉体関係を前提としたプラトニックな純愛を求めるが、一度女の方が肉体関係(と言っても手が触れ合う程度)を求めた途端に急に興醒めし、人妻を振ってしまう。ふられた人妻は、その直後死を選ぶかのようなそぶりを一瞬見せるものの生き続ける。が、その自暴自棄となり酒浸りの生活を送り、ついには事故により命を絶つ。

その事故を新聞記事を通じて知った際の主人公の男の独白が衝撃的である。死んだ人妻に対する何の悲しみや憐れみも感られない、まさにサイコパスと思われるくらい自分勝手な感情の爆発が続くのだ。

なんたる結末!女の死を語る記事全体に吐き気を催した。陳腐そのものの言い回し、空虚な同情の表現、ありふれた低俗な死の詳細を隠すべく丸め込まれた取材記者の用心深い心遣いが、胃袋を直撃した。彼女は品位を落としただけではない。この自分の品位をも落としたのだ。女の堕落の場となったむさ苦しい区域、惨めな悪臭紛々たる地域が目に浮かぶ。己の魂の信仰相手が!酒場で酒を恵んでもらおうと缶や瓶をかかえてよたつき歩く哀れな連中が思い浮かぶ。まったくもって、なんたる結末!

(ダブリナーズ、痛ましい事故)

「自分はやっぱり独り身なんだ」という事実を実感するために使われた道具のように扱われている人妻が不憫である。少なくとも、男の中で人妻はプラトニックラブを追求していた輝かしい姿ではなく、その後落ちぶれた姿として永遠に生き続けることが確定しまったのである。

彼は女が死んだことを、もはや存在しないことを、一つの思い出となってしまったことを理解した。(…)自分は自分で最善と思われることをした。なにを責められることがあろうか?女がいなくなった今、女が毎晩毎晩、あの部屋で独りきりで過ごした人生がいかに孤独であったかが分かる。自分の人生も孤独なものとなっていき、ついには自分もまた、死んで、存在しなくなって、一つの思い出となるーもし思い出してくれる者がいるなら。

(ダブリナーズ、痛ましい事故)


4.死せずとも光り輝く姿を永遠のものにした「春琴抄」

一方で視覚をテーマに、死を選ばずとも光り輝く姿を永遠のものにした小説が谷崎潤一郎の「春琴抄」である。愛する女性のため、というよりも、愛する女性の美貌を永遠のものとしたいという自分自身の欲望のために自ら目を傷つけ盲目となる道を選んだ男性の心理描写が素晴らしかった。

以上、本来は「ダブリナーズ」の読書記録を書こうと思っていたら、これまで読んできた漫画や詩、書籍が頭を巡り、上記のような文章になった。







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