【読了】『経験と教育』
ジョン・デューイ 市村尚久訳
講談社学術文庫
言われたこと、お願いされたこと、命令されたことをこなすという「機械」を育てているのではありません。
私たち教員の目的は「人格の完成」です。
豊かな人生を歩み、社会を形成していけるような「人」を育てること。
なのでしょうか?
私は、子どもだとしても「他人」を育てるほど完璧な人間である自信がまだありません。だからこそ、この教員生活4年で感じてきた、個人的「教育」の考え方で、少しだけ「教育」の目的を色づけたいと思います。
同じ人間として、立場は違えど、「教育」にかかわっている私と子どもたちと共に、自分の生き方を模索し、強くたくましく、その信じた道を歩んでいけるように、一緒に成長し合える環境を作ること。お互いに「人格を完成」する経験を、学校という場所で行うこと。
そんな教育をしていきたいと思っています。
そのために何が必要なのか。
この本を読んで強く感じたこと、というよりかは、感じていたものを色濃くしてくれたことはやはり、「経験」の大切さでした。
少し話をそらして「学校」の意義は何でしょうか。
教育の目的を果たす場所だと思うのですが、現在学校で行われている教育は「人格の完成」に結びついているのでしょうか。
私が受けてきた教育を全面否定するわけではないのですが、高校生だった私がとらえていた「教育」は、受験勉強のためでした。
高校生という立場だったからかもしれませんが、「教育」の目的なんか知らず、あったことも知らずにただ知識を詰め込み、テストでどれだけそれを思い出せて、偏差値という数字に一喜一憂し、大学生活を送りたいという思いで授業を受けていました。
大学に入り、「教育の目的」を知った時、私が受けてきた「教育」を振り返り、そして、私はその「教育」をこれから未来を生きる子どもたちと一緒に体現したいと強く思いました。
教育とは、未来を生きるためのものです。
その未来は、大学入学という近いものだけを指すのではありません。
この本の著者、デューイも従来の教育と、進歩主義的教育という言葉で「教育」の在り方を論じていました。
いわゆる「伝統」として残ってしまっている教育の必要性に疑問を持ち、「進歩主義」という未来を考える教育を目指したのではないかと、勝手に今の私の思いと重ねてしまいました。
「学び」は学校だけで行われている特別なものではなく、生涯ずっと使っていく社会的行動です。学校で得た知識をどのように生かすかを子どもたちと一緒に考えていくことが「教育」なのではないでしょうか。
今だに、教育や学び、学校、教師の在り方に疑問を持つ人が多いと思います。生徒も「教育」の意義をあまり深く考えずに、毎日教室に集まり、授業を受け、テストを受け、点数に一喜一憂しているように思います。
ですが、私はそれを「間違った教育」と間違った捉え方をしていていたのも事実です。
テストも意味がある。
受験も意味がある。
そう、意味があるようにすれば。
テストも受験も授業もすべて「経験」です。
それを「やらされている」というものにせず、そういうものでしかないと思わず、どれだけ多くその「体験」から学びを得ることができるのか。
この姿勢一つで大きく成長できるのだと思います。
今の目の前にいる生徒と一緒に「未来を生きる」学びをしていきたいと強く思いました。
「経験」とは、ただ単純に何かを「こなす」となると、意味のないものになってしまう。
どれだけ「経験」から学び取り、次に活かせるかで成長に大きく影響していきます。
その姿勢は学校だろうと私生活だろうと変わらない。
この姿勢を持つために、自分をメタ認知させ、次に生かそうとする姿勢、まさに今現代でも求められている「探究」です。
100年前からこの「探究」の必要性を説いていたデューイに関心したのと同時に、その大切さを改めて実感しました。
学校で起こる1つ1つの学びを「経験」と捉え、自分の未来への生き方に還元するという教育をできるようにしていきたいと思いました。
そして、この「経験主義」を考えた時、1つのドラマで出てきた方程式を思い出しました。
『鈴木先生』という中学2年生の生徒の思春期を描いたドラマ。
経験を多く積んでいることが損だと嘆く生徒に鈴木先生が伝えた方程式。
物事の全ての経験から何を学び取り、そして自分に落とし込み、未来へ生かそうとするか。
私はこの方程式の意味を、授業や学級経営で伝え続けたい。
一緒に「経験」から学ぼう。
全てを意味ある「経験」にしていこう。
そして、「自分」という「人格を完成」させて、一緒に未来に強く生きていこう。
この本をお勧めしてくださってありがとうございました。