
【ショートショート】間違った判断 (2,200文字)
さる大手商社の法務部に勤めていた私は大きな問題に直面した。というのも、弊社(と癖で未だに言ってしまう)の営業課所属の若い女性社員が取引先の幹部から性加害を受けたと報告してきたのだ。
当初、その課では内々に処理しようとしていたらしい。だが、本人は納得がいっていないようで、ハラスメント窓口を有する法務部に連絡をしてきた結果、あまり仕事のできない私に担当が回ってきてしまった。要するに嫌がらせというか、なすりつけというか、面倒くさいことになるのが明白なので、押し付けられてしまったのである。
彼女の希望は簡潔だった。会社として先方を訴えてほしい。もちろん、取引はすぐに停止すべき。警察の取り調べには抵抗感があるけれど、必要であれば、被害届を出す覚悟はできているとのことだった。
対して、彼女の上司はこれに反対。どうしても相手を許せないのであれば、個人的に知り合いの弁護士を紹介するから、示談金で解決しようと提案しているそうだ。なんでも、その取引先は全国に展開している大口の医療法人で、年間数十億という医療器具を買ってくれているんだとか。その売上がゼロになるのは困るし、ここだけの話、関係者の子弟をコネ入社させている手前、強気に出るのは難しいということだった。
「そんなドラマみたいに汚い話があっていいんですか?」
涙目で訴える彼女に私はなんとも言えなかった。無論、そんなドラマみたいに汚い話があっていいわけない。ただ、こうして大きな会社で働いてみるとそんなドラマみたいな汚い話が当たり前のように存在していて、そのいちいちで正義感を発揮していたら、働いてなどいられないという現実もあるのだ。
なお、この件に関して知っている社内の役員たちは法務部の判断に従うと言っているようで、なのに、その判断によって生じる損害の責任は法務部にあると風聴している者もいて、私はどうしたものかと困ってしまった。
部内には味方がいなかった。早々にヤバい案件と察した連中は忙しいフリに一生懸命。目を合わせてもくれなかった。声をかけても、
「いまは余裕がなくて」
と、口をそろえたように返されてしまった。ならば、一方的に状況を報告しようかとすれば、鳴っていない電話を耳に当てて、
「もしもしー。どうも、どうも」
と、部屋の外へと逃げてしまうのだった。
結局のところ、会社はこれを個人間のトラブルとして処理したがってきた。それならば、取引を止めることなく、被害者とされる彼女の鬱憤も晴らせるだろうとの希望に基づく判断だった。
たぶん、法務部は会社の一員として、この考え方を支持するべきだった。上司から、
「大丈夫だよな? わかっているよな?」
と、確認されたのはそういう圧力だったのだろう。
なのに、私は愚かにも、これはトラブルなんて甘い言葉で誤魔化せるような出来事ではなく、ちゃんと刑事事件の形で責任をとってもらわなければいけないと報告書を提出してしまった。その内容は至極真っ当なものなので、さすがに誰も否定はできないまま、弊社の公式見解となった。
取引の停止によって予想通り数十億の損害が発生した。どういう理屈なのか、弊社を信用できないという取引先がいくつも現れ、一方的に打ち切られる契約も続出した。株価も下がり、そういうすべての連鎖を合わせた被害規模は会社を揺るがせるには十分だった。
なぜか、週刊誌は弊社の体質を攻撃した。女性社員を接待に連れ出す習慣があったと普通の飲み会を大袈裟に脚色されて、役員の責任問題へと発展した。社長が辞めた。専務が辞めた。大株主である外資のファンドの要求で子会社の人間が経営陣に抜擢される事態となった。
魑魅魍魎が跋扈していた。この混乱をチャンスと見た連中がここぞとばかりに自分の利益を最大化しようと暗躍した。そうして、絶対に悪者になり得ないはずの被害女性が批判される事態となった。自分から誘ったんだろうとか、ハニートラップを仕掛けたんだろうとか、あり得ない嘘が真実のように巷を駆け巡った。結局、彼女は社内に居場所をなくし、田舎に帰ってしまった。「お世話になりました。ご迷惑おかけしてすみません」というメールが届いた。最後に「東京が嫌いになりました」と書いてあり、私は胸が痛かった。
当然、私も針の筵だった。声高に文句を言ってくるようなものはいなかったけれど、待遇は如実に悪くなり、仕事が回ってくることもなくなった。「おはよう」と言って、「おはよう」と返してくれる人はいない。「おつかれさま」も独り言と化し、もう、この姿は誰にも見えていないんじゃなかろうかと本気で不安に襲われた。
おそらく、早い段階でうつ病になっていた。運悪く、私は独り身だったので、日々の変化に気がついてもらう機会もなく、頼れる相手がいるはずもなく、気づけば、JR新小岩駅のホームから総武線快速に飛び込んでいた。即死だった。
そうして、地縛霊となり、私は長いこと葛飾区あたりを漂いながら、あれは間違った判断なのかもしれないと後悔してきた。やはり、空気を読んで、隠蔽しておけばよかったんじゃなかろうかと。
しかし、フジテレビが中居正広問題でどうしようもなくなったことで、やはり、私の判断は正しかったのだと確信を得た。
そんなわけで、めでたく未練が晴れたので、いまから私は成仏する。さようなら。悪しき日本の因習よ。来世はもっとまともであってね。
(了)
マシュマロやっています。
匿名のメッセージを大募集!
質問、感想、お悩み、
読んでほしい本、
見てほしい映画、
社会に対する憤り、エトセトラ。
ぜひぜひ気楽にお寄せください!!
ブルースカイ始めました。
いまはひたすら孤独で退屈なので、やっている方いたら、ぜひぜひこちらでもつながりましょう!