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【映画感想文】わたしは学校が好きじゃなかったけど、好きじゃないと安心して言える場所があってよかったと心から思うし、これからもあり続けてほしい - 『小学校~それは小さな社会~』監督:⼭崎エマ

 アカデミー賞短編ドキュメンタリー部門にノミネートされてことで話題の『小学校 〜それは小さな社会〜』を見てきた。

 週末の昼に劇場へ行ったのだけど、小学生ぐらいの子どもを連れた親子がたくさん来ていて、珍しく映画館に活気があふれていた。また、ミニシアターの常連らしきお年寄りとか、わたしみたいな映画が好きそうな30〜40代もけっこういて、満席に近い状態だった。

 こういう老若男女が集まる光景を見たのは久々な気がする。なんでかなぁと思ったけど、小学校って、誰もが一度は通うものだし、すべての人が共感できる題材なんだと気がついた。

 終演後、エレベーターで子どもたちがお母さんに、

「うちのクラスではああじゃなくてね!」

と、一生懸命に説明している姿が微笑ましかった。スクリーンに映し出されたものを自分事と比較して語れるなんて、素敵な映画体感である。たぶん、お年寄りはお年寄りで令和の小学校に驚く部分が多いはずで、みなさんの感想もお聞きしたかった。さすがにいきなり声をかける勇気はなかったけど、上映後にディスカッション・イベントがあったら相当に盛り上がるような気がした。

 かくいうわたしも語りたいことがたくさんある。

 平成生まれ、平成育ちとして、ゆとり教育エリートであるわたしにとって学校は退屈な場所でしかなかった。

 特に小学校3年生のとき、うちのクラスは「ゆとり教育」の効果を測定する調査対象に選ばれ、過剰なまでにゆとりだったので、ほとんど授業らしい授業が行われなかった。月曜から金曜まで(土曜は休みだったので)、ほとんどのコマが「総合」と呼ばれる授業になった。生徒主体という名の目的不明で、なにをやるかも決まっていないから、とりあえず毎日のように近所の川にフィールドワークに出かけていた。

 先生はみなさんが学びたいことを好きに学んでいいんですよ、と言っていた。理科が好きな子たちは水質調査をすると言って、東急ハンズで買ってきたリトマス試験紙を川のあちこちにつけてレポートをまとめていた。虫が好きな子たちはバッタやアメンボを捕まえたり、絵が好きな子たちは風景画を描いていた。

 一方、学びたいことなんてなかったわたしはやるべきことが見つからず、草むらに寝そべって流れる雲をぼーっと観察していた。心配した先生から、

「なにをやってもいいんだよ。自由に学んでいいんだから」

と、たびたび声をかけられたが、毎回、どうしたものかと困ってしまった。本音を言えば、ゲームをしたり、漫画を読んだらしたいけど、たぶん、それは禁止されると思う。してみれば、自由なんて見せかけ。なにもできやしないじゃないかと不満でいっぱいだった。

 川から学校に帰り、窓越しに他のクラスの子どもたちが勉強している様子を見て不安になった。みんなはああやって割り算ができるようになっているのに、わたしは割り算がなんなのかを知らない。いつか大人になったとき、とんでもない差がつくんじゃないかと怖かった。

 で、いつだったか、わたしはいつもの川っぺりで先生に、

「もっと算数がやりたい」

と、言ってみた。普通の勉強がしたい、と。

「うーん。それは算数の授業でやればいいでしょ。いまは総合の時間なんだから、自由に勉強しようね」

 いまにして思うと先生も大変だったんだと思う。文部科学省が決めたゆとり教育に意味があるのか、テストしろと言われたって、なにをしていいのかわからなかったのだろう。「総合」という捉えどころのない授業を一年間やりまくらなきゃいけないけど、なにを成果とすべきなのか、ひたすら迷っていたはずで、従来の授業と違うことをしなきゃという強迫観念にかられていたのだろう。

 ちなみに、先生は近所の川の水質が悪化しているという仮説に基づき、地球環境を守る大切さをわたしたちが学び、人々にそのことを啓発するための歌をうたうというゴールを最終的に設定した。学年末に駅前のビルでスペースを借りて、『この地球のどこかで』という合唱曲を疲労した。その練習が嫌で嫌で堪らず、わたしは何度もサボり、先生と真面目なクラスメイトから怒られまくった。「みんな頑張っているんだよ」とか「責任を果てしなさい」とか言われて、つい、あれこれ反論したせいで険悪な空気になった。その後、いろいろ話し合う中で、授業としてオチをつけなきゃいけないという先生の本音を聞き、だったら協力しますということで練習に参加するようになったことを覚えている。

 さて、数年後、国はゆとり教育の廃止を決めた。わたしたちの結果を見て、意味がないと判断したに違いないのだが、あの一年はいったいなんだったのか? と呆れざるを得なかった。主観的にも、客観的にも、クソな時間だったことが確定してしまった。

 しかし、不思議なもので、30歳を過ぎて小学校の頃を思い出すとき、わたしが多くのことを学んだのは間違いなく小学校3年生のクソみたいに退屈だった「総合」の授業なのである。

 不自由な自由を押し付けられる理不尽だったり、先生も一人の人間として仕事に悩んでいる現実だったり、関係者全員がやる必要ないと思っていることをポーズとして頑張らなきゃいけない下らなさだったり。そして、こんなことをしている場合じゃないという焦りから、勉強しなきゃと奮起する気持ちはあのどうしようもない時間の中で身につけた。

 30人ちょっとのクラスメイトから、後に国立の医学部や東大早慶MARCH合格といわゆる難関とされる大学に進学するやつが続出したのは偶然じゃないと思う。なんてことない公立小学校だったことを考えるとこれはなかなか凄い。

 全員、学校の悪口を言いまくっていた。ゆとり教育はやば過ぎるでしょって。同時に、文句の裏返しとして、自分たちはこういう教育を受けたいと具体的な理想を語ってもいた。そして、その環境に行こうと頑張った。

 もし、あのとき、学校に満足していたら、そうはならなかったと思う。もちろん、生存者バイアスが働いていて、ゆとり教育につぶされた同期がたくさんいたことも忘れてはいけない。だが、そうだとしても、学校はゴールではなく、通過点であることを考えれば、そこが完璧である必要なんて少しもないのだ。

 映画『小学校 〜それは小さな社会〜』でコロナ禍を過ごす小学生たちを見ていて、そんなことを考えた。きっと、彼らは納得のいかないことだらけだろう、と。

 東京オリンピックはあるのに自分たちの修学旅行が延期になるってどういうこと? 同じ空間にずっといるのに給食の時間だけ黙食を徹底させる意味なんてある? などなど。先生も親も納得なんてしていない。でも、学校を再開させるためには意味がないとわかっていても、やれる限りのことをやったという言い訳が必要なのだ。……でも、誰に対して? さあ、わからない。わからないから、君たちは腹を立ててほしい。腹を立てて、そんな日本の謎な空気を将来ぶっ壊してくれ。

 山崎エマ監督のインタビューで他国の反応が語られていた。特にフィンランドは生徒の主体性を尊重しまくった結果、自分のことしか考えられない人が増えてしまって、問題になっているんだとか。してみると、日本の理不尽だけど社会性を重んじる教育に多くの刺激を受けているとか。

 なお、この映画は短縮版がアカデミー賞にノミネートされているのだけど、ニューヨークタイムズが無料公開しているので、YouTubeで簡単に視聴できる。

 小学校1年生の女の子が演奏会の練習に励むシーン。うまくできない上に、楽譜も忘れてしまって、先生にこっぴどく怒られてしまう。

先生「あなた一人しかいないんです。その責任があなたにはあります。決まったところで叩いてください。いいですか?」
女の子「楽譜忘れた……」
先生「ちょっと待って。いま楽譜ないとできないって人いますか? 手を挙げてごらん」
(他の生徒たち手を挙げない)
先生「なんで、みんな、楽譜なくてもできるんですか?」
他の生徒たち「練習しているから」
先生「そうだよね。一年生のために一生懸命練習続けてきているんだよね。(女の子の方を向き)それをあなたはやっているんですか?」
女の子「……(泣く)」
先生「オーディションに受かったらそれでおしまいなの? それがゴールなの? 違うよね。泣いたら上手になるの? 学校にいる間だったら先生教えてあげます。でも、ここわからないって聞きに来ないし、お家でも覚えるぐらい練習しなかったらダメだよ。どうしますか? これから。代わってもらいますか? じゃあ、どうしますか?」
女の子「家で頑張って練習する」
先生「先生、その言葉、信じるよ」

 あー、あったなぁと懐かしくなった。こういうやりとり、小学校の頃、よくあった。そんな怒らなくてもいいじゃんと腹が立ったけど、幼くて、上手いことなんて言い返せなくて、泣くしかない悔しさが蘇ってきた。

 短縮版でここをピックアップしているということは、監督としても議論が盛り上がる場所だとわかっているはずで、厳し過ぎるという意見が出るのは出演者の先生も含めて覚悟の上なのだろう。してみると、そこに教育的信念が感じられてくる。

 その後、女の子はこの先生に怯えてしまって、体育館の練習に参加することができなくなってしまう。だけど、担任の先生が優しくフォローしたり、友だちが声をかけてくれたり、どうにか勇気を振り絞る。そうして、怖かった先生とも普通に話せるようになっていく。この過程を見るに社会性はたしかに育まれている。

 ミクロな視点で言えば、先生はあんな態度で子どもに接するべきではないのかもしれない。練習しない自由だってあるのだから、脅すような言い方をするのはおかしい、と。これが現代的な価値観で、わたし自身もこういう考え方で子どもに接してしまう。

 一方で、マクロに捉えたとき、世の中は理不尽な大人であふれかえっているわけで、先生が理不尽であるのも普通なこと。むしろ、フォローが可能な環境で理不尽に対処する経験を積めるというのはすばらしいことなのではないか、と思えてもくる。実際、その先に分断を越えたコミュニケーションの実現があるわけで、それはなにより社会で生きていくために必要なことだから。

 ただ、難しいのは理不尽とフォローのバランスで、そのつらさに耐え切れず学校に通えなくなってしまう子どもがいるのも現実だ。映画本編では教育学者の先生が日本の社会性を重んじる教育は「諸刃の剣」なんだと注意していた。仲間に優しいとは敵に厳しいことであり、連帯感の強さは排除される恐怖につながっていく。

 そんな大変なことを一人で背負えるはずはなく、個人プレイが求められる小学校の先生という仕事のあり方はすでに無理が生じている。昨今はPTAも弱くなっているし、地域の大人も減っているし、先生はどんどん大変になっている。先生が先生でいるためにはわたしたち含め、学校の外にいる大人の協力が本来は欠かせない。

 ある先生は平均台の上を歩くような気持ちで仕事をしていると言っていた。ある先生は「社会に出たことないじゃん」と言われることに悩んでいた。本来、おかしいよね。学校だって社会の一部なのに。どうして社会の外側に追いやって、先生たちに曲芸のようなことをさせてしまっているのか。

 修学旅行の夜、先生たちが集まって、怒り方について話し合っていた。なぜ自分たちが怒っているのか、理由を説明しなきゃいけない、と。うるさいから静かにしろというのは簡単だけど、彼らはなぜうるさくしちゃいけないのかわからないから、ストレスだけが溜まっていく。このホテルには一般のお客さんも泊まっていて、その人たちにとっても旅行は特別なことであり、我々がうるさくしたら迷惑をかけてしまうから、静かにしようと説明することで指導になり、子どもたちの次につながっていく、と。そうやって先生たちが価値観のアップデートに努めている姿は素敵だった。

 改めて、ドキュメンタリー映画に出演を決めた世田谷区立塚戸小学校のみなさんは本当に凄い! 監督と世田谷区議の神尾りささんが撮影に至るまでの経緯をYouTubeで語っているけれど、奇跡のようなつながりがいくつもあったようで、そうそうできるものではない。

 小学校。それは誰にとっても関係のある場所だけど、故に、公開されることの少ない場所でもある。なので、こういう形で現代の小学校を見ることができるのはとても嬉しい。

 大人は子どもに嫌われていい。ただし、安心して嫌うことのできる存在でなくてはいけない。邪魔だけど、決して危害を加えてこない壁になることで、子どもたちは乗り越える練習を重ねられる。それができる場所が学校であり、わたしたちは社会として、そういう場所を維持するためにコストを払うべきである。お金はもちろん、時間も捧げる価値がある。

 わたしは学校が好きじゃなかったけど、好きじゃないと安心して言える場所があってよかったと心から思うし、これからもあり続けてほしい。




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