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【マシュマロ】罪を犯した知人を愛せなくって罪悪感。でも、愛するって、簡単なことなんだっけ?

 マシュマロに質問を頂きました。

知り合いが罪を犯すと動揺してしまいますよね。わたしも大学時代にサークルの先輩が痴漢で捕まり、ネットニュースで報じられたとき、心がざわつきました。

身近な人の犯罪が周知の事実になったとき、まわりの人間も責任を問われるような感覚に襲われます。特に、親しい間柄であれば尚更です。だからこそ、質問者様は裁判を傍聴したり、拘置所に行かれたのではないかと推測します。

その方が出所された後、疎遠になってしまったことに罪悪感を覚えてしまうのも、恐らく、自分が果たすべき責任があると認識されているからなのではないでしょうか?

「憐れみ」を醜いと定義される理由はその行為が上から目線だからですよね。してみれば、質問者様の理想は対等な関係の再構築だったと考えられます。そして、それができなかったことに「なぜ?」という疑問を抱くということは、人間としてそうすべきという倫理観をお持ちなんだと思います。

実際、一般的にそれが正しいことと言われています。キリスト教では隣人愛が説かれていますし、仏教では慈悲の心が重要とされています。THE BLUE HEARTSも「人にやさしく」と歌っていますね。

総じて、「愛」を意味しているわけですが、これは安っぽい言葉に聞こえるほど巷に氾濫しています。そのため、わたしたちは愛することを自然な行為であると信じています。

ところが、どうやら、そうでもないらしいのです。エーリッヒ・フロムという人が『愛するということ』という本でこの点を指摘しました。

フロム曰く、「愛は、誰でもが、自分の人間としての成熟の度合と関係なしに、手軽に耽溺できるような感傷的なものではない」というのです。愛は技術であり、他者を愛するためには知識と努力が必要らしいのです。

そう考えると、わたしたちが罪を犯した知り合いとの接し方がわからなくなるのも合点がいきます。つまり、そのために必要な技術を習得できていないのです。

では、どうすればいいのか?

フロムは『愛するということ』の中でその方法を解説しています。端的に言うなら、自らの価値を信じ、否定されることを恐れず相手と接し、傷つきながら互いに成長していく感じでしょうか。

もし、興味が湧きましたら、お読み頂けると幸いです!




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