【ショートショート】ハルシネーション (2,668文字)
「あなた、ヘイトスピーチしてたんでしょ?」
初対面のお客様にそう尋ねられたとき、一瞬、わたしは自分のことを言われているのだと気付けなかった。
「え? どういうことですか?」
「いや、ウィキペディアにそう書いてあったから」
短髪のグレイヘアがよく似合うマダムらしからぬ手際のよさでお客様はスマートフォンを操作して、該当ページを見せてくれた。たしかにそれはウィキペディアであり、わたしの名前のページであり、生年月日も出身地も卒業した大学も、外商として働く現在に至るまでの経歴も見事に記されていた。
「どうして? こんなもの、作った覚えはありません」
「それはよくわからないけど、あなたの名前で検索したら、これが出てきたのよ。でね、ここのところ見てほしいの」
指差す先に目をやると「人物」という項目の中に様々なエピソードが並んでいて、その中になるほど、二十三歳のとき特定の国の出身者を否定するデモに参加したと書いてあった。
「ちょっと待ってください。これ、嘘ですよ。そんなことしてないですもん。適当にもほどがあります」
「そうなの? でも、ウィキペディアって百科事典なんでしょ? 間違ったことなんてあるのかしら?」
「ありますよ。誰だって自由に書き込めるから、たぶん、わたしを貶めたい誰かがやったんだと思います」
「まあ。知らなかった。怖いのねえ」
いや、怖過ぎるにもほどがある。ウィキペディアに自分のページが作られていることもだし、そこに個人情報が載っていることもだし、とんでもない嘘が混じっていることもだし、それを読んで信じてしまう人がいることも怖過ぎる。
結局、このお客様には納得してもらえたので、なんとかお買い物を楽しんでもらえたけれど、同様の誤解は広がっているかもと考えたら憂鬱だった。事務所に帰る道中、不安を一人で抱えることができなかったので、SNSに、
「勝手にウィキペディアのページ作られてて最悪……」
と、投稿したところ、普段とは比べものにならない速度で反応が寄せられた。なんでも、自分もそうなんだと共感の声が大半だった。この現象はわたしだけじゃないとわかっただけでも気持ちは楽になった。次いで、こういうことに詳しい人のはてなブログが送られてきた。そこではそれっぽい考察が展開されていた。
まず、ウィキペディアのページを乱造しているのはそのスピードから判断するにAIで間違いないらしい。ターゲットにされているのは若年層が多く、きっとなんらかのサービスを運営している会社で情報漏洩があり、AIはそれらを学習して記事を作成しているはずと予想していた。目的は不明だが、その際にハルシネーションが多発しているため、ウィキペディアは相当な情報汚染被害を受けていて、下手したら閉鎖に追い込まれるかもと結論づけられていた。
ハルシネーション?
聞き慣れない単語だった。調べるとそれは人工知能による虚または誤解を招く情報を事実として提示する応答を意味し、まさにわたしがヘイトスピーチをしていたと書かれてしまった状況を指し示す言葉だった。
さて、状況の把握ができたところで事務所に到着。日報をまとめようとデスクに向かってみれば、なぜか、わたしの所有物が綺麗さっぱりなくなっていたので戸惑った。
「あれ? どうして?」
独り言のようにつぶやいて、まわりに助けを求めてみた。ただ、みんな、見て見ぬ振りをしているようで、誰も声をかけてはくれなかった。なにかがおかしい。不審がっていると、
「おい。林田。こっち来い」
と、部長に声をかけられた。ただでさえイカつい顔をしているのに、今日は一層険しさを増し、こちらを睨みつけてきていた。
「なんですか?」
「なんでもクソもねえんだよ。ふざけやがって。いいから来いよ」
圧に負け、促されるまま、がらんとした会議室についていくと会社を辞めるように言われた。迷惑なんだ、と。なんでも、わたしがあおり運転をしていると苦情の電話が殺到し、業務が滞っているらしい。
「あおり運転? そんなことしてません」
「とぼけるな。ここに書いてあるんだよ」
部長はスマホでわたしのウィキペディアページを見せつけてきた。
「それはハルシネーションで……」
「言い訳はいいから」
とりつく島もなかった。どうやら部長もわたしのウィキペディアを読み、こんなやつは許せないと腹を立てているようで、上司としてではなく、個人的な制裁を加えたがっていた。次第に言葉は汚くなっていき、このままだと手を挙げらそうだったので、嫌だったけど退職に同意し、命からがらその場を逃げ出した。
散々な一日だった。こうなってしまうと同僚と顔を合わせるのも嫌だった。悪いことはしていないはずなのに、後ろめたさを抱えながら事務所を飛び出した。これからどうなるのだろう。いつもより早い時間の電車は空いていたけれど、ついさっきまで想像だにしていなかった不安が胸に広がり、やたら息苦しかった。とにかく家に帰ろう。疲れてしまってどうしようもない。
だが、やっとの思いで自宅マンションに到着し、ドアを開けようと鍵を差し込んでみたところ、一向に回らないので心は打ち砕かれてしまった。ガチャガチャ。何度やってもうまくいかなかった。
「え? 林田さん?」
訝しそうな声が聞こえた。視線を送るとそこには大家のおばさんが立っていた。
「す、すみません。鍵が開かなくて。うるさいですよね。でも、なんか変なんです。お手数おかけしますが、合鍵、貸してもらってもいいですか?」
大家さんは真っ青な顔でその場に立ち尽くしていた。わたしはただでさえイライラしていたし、その上、緊急対応してもらえないことに我慢がならなかった。毎月、管理費を払っているのはこういうときのためじゃないのかよ。つい、怒鳴るように、
「合鍵、貸してもらってもいいですか?」
と、繰り返してしまった。すると、大家さんは腰を抜かして倒れ込み、目を閉じて十字を切り始めて。
「ひー。助けて。成仏してー。なんまいだー」
なにがなにやらだった。
「大家さん、わたし、幽霊じゃないです」
「で、でも、あなたは死んだって。だから業者に頼んで部屋を清掃してもらったのに」
「……それ、誰に聞いたんですか?」
「ウィキペディアに書いてあったの」
はぁ。スマホを取り出し、例のページを読んでみた。たしかに最新の更新でわたしは死んだことになっていた。まったく、適当にもほどがある。一切合切が嘘なんだもの!
しかし、こうやって仕事も住む場所も失ってしまったいまとなっては真実なんてどうでもよかった。
(了)
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