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【時事考察】男性差別の訴えを侮ってはいけない! 社会に広がる「あいつだけズルい症候群」

 最近、「男性差別」という言葉がトレンドになりがちだ。大きいものだと自民党総裁選を巡るポスターについて、歴代の総裁がずらりと並んだ写真について、TBSの番組『NEWS23』でコメンテーターのトラウデン直美さんが「おじさんの詰め合わせ」と発言し、男性差別という批判が相次いた。

 また、フリーアナウンサー・川口ゆりさんがXで「ご事情があるなら本当にごめんなさいだけど、夏場の男性のにおいや不摂生してる方特有の体臭が苦手すぎる。常に清潔な状態でいたいので、1日数回シャワー、汗ふきシート、制汗剤においては一年中使うのだけど、多くの男性がそれくらいであってほしい…」と投稿し、男性差別と批判されて炎上。事務所を解雇されるに至った。

 そして、昨日は大手焼肉チェーン店の牛角が女性のみ食べ放題が半額になるキャンペーンを発表したところ、これもまた男性差別と炎上した。

 いずれもいまに始まった問題ではなくて、以前から、おじさんに対する風当たりは強いとか、レディースデイなど女性は優遇される場面が多いとか、男性からの不満の声は上がっていた。ただ、それらは愚痴のようなものとして捉えられ、社会的に影響を与えるだけの規模には拡大していなかった。

 しかし、一度、「男性差別」という言葉で表現されると訴求力は途端に増大。ある種の勢力となってしまった。

 最初は「女性差別」に対するカウンターだったはず。女性たちが世の中の不満を訴えるにあたり、「女性差別」という言葉で団結し、ルールや枠組みを変えてきた運動を揶揄することを目的に「男性差別」という言葉が使われてきた。有名な例としては女性専用車両ができた際、これは男性をおしなべて痴漢扱いし、追放する男性差別であると言われたりしていた。

 そういう従来の文脈で考えると、ここ最近の「男性差別」を巡る騒動も同じような屁理屈に感じられてしまうかもしれない。

 実際、上記の問題を巡っては擁護する声も相次いだ。自民党総裁選のポスターに対して「おじさんの詰め合わせ」と言うことは批評の範疇であり、これまで女性総裁が一人もいなかったことの異常性を表しているという意見は多かった。フリーアナウンサーの体臭についての発言は肯定できないけれど、職を失うほどではないと事務所の対応は疑問視された。女性半額キャンペーンは企業の自由な営業活動で、来てほしい顧客層を優遇するの当たり前という指摘が散見された。

 その上で、「男性差別」という言葉に対する違和感を表明している人もけっこういる。要するに、人種差別だったり、性差別だったり、カースト差別だったり、障害者差別だったり、「差別」という言葉が可視化してきた生きにくさというものは、本来、より深刻な領域であり、未だ社会において優遇される立場にある男性が「差別されている」と主張することはおかしいということだろう。

 このとき、細分化が進むマイノリティに対して、男性という大きなくくりを適切とするか否かで議論がわかれることになる。

 マイノリティがマイノリティであるためにはマジョリティを示す必要がある。そういう文脈の中で、白人だったり、男性だったり、大きな主語が重宝されてきた。現状の社会構造は彼らが彼らに合うよう作ってきたものだから、マイノリティであるわたしたちの居場所がないと語ることで権利の獲得を目指してきた。そして、それは効果的だった。

 ただ、その効果が出れば出るほど、マジョリティとされた人たちは反比例で加害性を帯びていくことになる。もし、本人に自分は差別をしていたという認識があったとしたら、仕方ないこととして受け入れられるかもしれない。だが、基本的に人間は自分が差別をしているという感覚を持っていない。育ってきた環境の中で当たり前と思ってきた言動をしているだけ。突然、それが社会的にアウトと告発されるとなったら、反論を述べたくもなるだろう。

 おそらく、この反論したい気持ちが「女性差別」という表現に対するカウンターとしての「男性差別」誕生の理由だった。言わば、マジョリティからの反撃だった。

 しかし、最近の「男性差別」はそういった余裕のある立場からの反撃というニュアンスが消え、弱者からの訴えのように性質が変化しつつあるとわたしは感じる。

 無論、すべてがすべてではなく、インフルエンサーがインプレッションを稼ぐためにあえて使っているケースもしばしばだけど、切実に「男性差別」を訴えている人たちの割合が増えてきているような気がする。

 具体的な根拠を示せないので、あくまで世の中の空気からそのように読み取れるという感想でしかない。ただ、仮にそうだとしたら、「男性差別」の訴えを侮るわけにはいかないので、現在、思っていることをつれづれなるままに書き残しておきたい。

 原因として、マイノリティが社会運動を展開していく上で設定した「男性」というくくりが大き過ぎたことが考えられる。女性や障害者が一枚岩でないように、男性もまた一枚岩ではない。様々なグラデーションが存在し、セクハラ三昧な男性もいれば、女性と一生縁がない男性もいる。経済的に成功している男性もいれば、貧困にあえいでいる男性もいる。高学歴な男性もいれば、義務教育を終えることができなかった男性もいる。当然、ひとつにまとめて納得できるわけがない。

 一応、マイノリティ側としても、不遇な人たちまでマジョリティに組み入れるつもりはなかった。男性でも障害があったり、病気で働けなかったり、なにかしらの要素があればマイノリティ側に加えてきた。ただ、モテない・勉強ができない・収入が少ないといった悩みを抱える人たちを救おうとはしてこなかった。恵まれた環境にいるんだから、本人の努力次第という自己責任論がこの領域にだけ適応されてきた。

 結果、男性の中で分断が起きた。マジョリティ扱いされる従来の男性以外に、自らを「弱者男性」と称する人たちが現れてきた。

 この「弱者男性」に関して、以前、わたしは『「非モテ」からはじめる男性学』という新書を読み、予想外の知見を二つ得た。

 まず、モテるとは男性のホモソーシャルにおけるマウンティングワードであること。男性同士のつながりで、勉強ができるとか、スポーツができるとか、これといった個性がないとき、キャラクターとしてモテないキャラを演じるところから非モテが始まるというのだ。

 次にホモソーシャル内の非モテというキャラクターをコミュニティ外の女性が見たとき、「あの人はモテないんだ」という評価につながり、本当に女性からの人気が低下してしまうということだった。

 詳しくは過去記事をご参照頂くとして、非モテがつらい理由は単純に女性と付き合えないという欲求不満にあるのではなく、マジョリティの男性からも阻害され、女性からも阻害され、社会的に孤立してしまうことにあるというのだ。

 そこに資本主義が追い打ちをかける。ネットでは努力次第で誰でも稼げるという言葉が飛び交っているけれど、現実問題、高学歴で上場企業に就職したり、医師や弁護士などの国家資格を取得したりが高収入の基本である。才能ある人たちはYouTubeやtiktokで荒稼ぎしているけれど、あくまで例外中の例外。おおむね、10代から20代前半にどのような環境にいるかで人生のほとんどは決まってしまう。

 してみると、中高生の頃に勉強やスポーツができず、モテないキャラを甘んじて受け入れるしかなかった男性の抱える苦悩は一生続くことになる。試験は苦手で、推薦を得られず、有名な大学に行かないとなったら、労働は限られてくる。収入だって期待できない。そうなると大人になってもモテないが継続してしまう。

 なるほど。だったら、勉強を頑張ればいいじゃないかと言いたくもなるだろう。ひと昔前なら、そうやって立身出世も可能だった。でも、いまは厳しい。だって、有名大学に入る人たちのほとんどは有名高校出身者。その有名高校に入るためには中学受験や高校受験で勝ち抜かなくてはいけない。そして、それには小学生の頃からの蓄積が必要で、この因果を辿っていくと親次第ということになってしまう。

 果たして、これを自己責任としていいのだろうか?

 教育格差が人生の格差と直結してしまったことで、いまさら、自分の努力ではどうにもならないという無力感が広がっている。同時に、高学歴になることの価値が跳ね上がり、チャンスをつかめそうな人たちの間で絶対にそれを流すまいという焦りも広がっている。

 そのことを象徴する出来事も増えている。

 例えば、「悠仁さまの東大進学に反対する署名活動」で1万人を超す署名が集まったり、京都大学の理学部と工学部に女子枠を設けるという発表に対して批判が集まったり、有名大学の進学方法に特例があってはならないという声が目立ってきている。

 いまや国立大学も独立行政法人。本来、どのような入試を行うとしても自由なわけだけど、合格のチャンスが一律でないことにズルさを覚える人が増えているようなのだ。

「あいつだけズルい」

 その感覚は社会に浸透しつつある。

 実力が信じられなくなったことで、なにもかもが運によるものと思えてしまう。あいつが恵まれているのは親ガチャや顔ガチャに成功したからと考えたら都合がいい。あいつが出世できるのは配属ガチャに成功したからと考えれば自分は傷つかずに済む。

 そんな中、皇族や女子という属性を理由に優遇されているところを目にしたとなったら、怒りを覚えずにはいられない。

「あいつだけズルい」

 わたしは「男性差別」を訴える人たちが言いたいことの本質はこれなんじゃないかと考えている。ガチャに失敗した自分たちにはどうして救済措置を用意してくれないのだ、と。

 ちゃんと調べれば、それぞれ事情があることは明確だけど、たぶん、そういうことではないのだろう。マイノリティ認定された人たちは優遇されているのに、特殊な境遇の人たちは優遇されているのに、なぜ自分たちだけは自己責任で一蹴されてしまうのか? 女性は女性という属性にネガティブな言動があったら、すぐに「女性差別」という攻撃で反論できるのに、男性はそれが許されていないのはどうしてなのか? 彼らはそういう非対称な理不尽に怒っているのだ。

 だとすると、案外、「弱者男性」の悩みは男性という属性とは違うところに存在しているのかもしれない。同時に、「男性差別」という訴えの根底には性別を超えたものが見出せる可能性もある。

 我々はつい、キャッチーな言葉に惑わされ、わかり合えるはずのものをわかり合えなくしてしまう。言葉を使うって、思っているよりも難しい。「伝えたいこと」と「伝わっていること」がズレるのはもちろん、「伝えたいこと」と「伝えられていること」がズレる場合もしょっちゅうだ。

 既存のマジョリティ構造に基づいて、男性は優遇されてきた側と言ってしまうのは簡単。だけど、それによって、その男性という枠組みに窮屈さを覚えている男性を見逃してしまったら、誰にとっても不幸ではなかろうか。

 そういう意味で「男性差別」の訴えを侮ってはいけないとわたしは思う。ひょっとしたら、諸々分析した末に単なるひがみに過ぎないという話になるかもしれないが、その背景に「あいつだけズルい」が蠢いているとしたら、けっこう恐ろしいような気がする。だって、その価値観の先にあるのは他者の成功を喜べない社会だから。足の引っ張り合いが加速してしまう。

 社会が分断することのデメリットはそこにある。地球というイレギュラーが発生しやすい環境で生き延びるために、人類は社会という仕組みを作り、様々な個性で支え合ってきたわけで、互いの憎しみが加速度的に増えていくというのはバグもいいところ。早く修正しなくちゃいけない。杞憂じゃないのなら。

 故に、念のため、「男性差別」の訴えには耳を傾けていきたい。




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