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【映画感想文】テロリストの犯行を生中継することはジャーナリズムなのか? それともテロリズムへの協力なのか? 報じることに意義があろうとも、その暴力性が相殺されるわけではない
1972年ミュンヘンオリンピックで起きたテロ事件はメディア史に残っていることは知っていた。世界で初めてテロリズムを生中継したのだが、結果、警察の酢酸などがテレビを見ていた犯人グループに筒抜けになってしまったという話は有名。また、2005年公開のスティーブン・スピルバーグ監督の『ミュンヘン』は大ヒット。当時、まだ中学生だったわたしはイスラエルとパレスチナが抱える問題の根深さに途方もなさを感じたものである。
主人公はイスラエル政府の命令で、ミュンヘンオリンピック事件の実行犯である「黒い9月」のメンバーを秘密裏に始末していく。表向きは存在しない人間となり、裏社会の助けを借りながら着実に暗殺を成功させるのだが、次第に敵も増えていく。命を狙われるストレスフルな毎日に悩みつつ、いくら殺しても終わらない戦いに精神は消耗。最終中にプロジェクトを抜け、ニューヨークのブルックリンで家族と暮らすことを選ぶ。
ラストシーン。そこにイスラエル政府の元上司がやってきて、主人公に帰ってこいと声をかける。君の祖国はイスラエルなんだから、故郷で一緒に飯を食おう、と。それに対して、主人公はこう尋ねる。
「じゃあ、まずは今夜、うちで一緒にご飯を食べよう。あなたは遠くから来たお客さんだ。ぜひ歓迎させてくれ。……うちでご飯を食べてくれるかな?」
元上司は即答する。
「絶対にごめんだね」
そして、そのまま二人は別れる。背景には世界貿易センターがそびえ立っている。CGで再現したらしい。
この演出は波紋を呼んだ。モサドがスピルバーグを激しく非難していたことを覚えている。まるで911のテロと同じことをイスラエルもやっていたみたいじゃないか、と。ミュンヘンオリンピック事件はパレスチナ人によるテロリズムであり、むしろイスラエルはテロの被害者なんだ、と。
その是非はともかくとして、スピルバーグの『ミュンヘン』はオリンピック中に選手村で起きた立てこもり事件そのものは冒頭にちょろっと描かれるだけ。なにがなにやらわからない構成になっていたのは印象的だった。たぶん、そこには制作意図があったのだろう。具体的には、犯人グループである「黒い9月」に対する憎しみを観客が持ち過ぎないようにコントロールしようとしたのではなかろうか。
西洋社会ではドイツを中心に第二次世界大戦中の反省に加え、ミュンヘンオリンピック事件で人質を救えなかった失敗を踏まえ、イスラエルに心を寄せなくてはいけないという認識が広く根付いたという話は聞いたことがある。そのため、現在もイスラエルとパレスチナの戦争を巡って、パレスチナ寄りの発言をすることはタブーになっているんだとか。
例えば、スラヴォイ・ジジェクはフランクフルトのブックフェアでハマスを否定しつつ、「パレスチナ人も苦しんでいる」と発言したことが問題になったと報告していた。反ユダヤ主義者と言われ、新聞でも叩かれてしまったそうだ。
このあたり、本当にコメントの仕方が難しい。ジジェクのように両者の抱える痛みに目を向けることは相対主義と批判される。いわゆる「どっちもどっち論」というやつで、ひとつの正義は存在せず、戦争は正義と正義のぶつかり合いだ、みたいな考え方。これは答えの出ない問題を棚上げにするという意味では心地よいけれど、結局、答えが出さないという点で意味がないというジレンマも抱えている。特に戦争というリアルタイムで多くの人が亡くなっている惨劇に対して、相対主義を持ち出すのは無責任極まりない。
とは言え、答えが出せない以上、なにを言っても間違いなわけで、それでも語らなくてはいけない状況に置かれたら相対主義ぐらいしか持ち出せるものがないというのもリアルなところ。さもなくば、ヨーロッパは自己反省からイスラエル側につくことを徹底せざるを得ないから。でも、それって、目の前で起きていることを見ているのではなくて、人権思想に目覚めたキリスト教世界が自らの負の歴史、つまり、ユダヤ人を差別してきたという過去を清算しようとしているだけのようにも思えてくる。
これを受けて、ユダヤ世界は満足するだろうか? いや、そんなはずはない。だって、差別をやめるのは大前提。その上で自分たちが秩序を作る側にまわりたいという要求ぐらいしなきゃバランスが取れない。「優しくしてくれてありがとう、西洋社会!」で終わるわけなくて、だったら西洋社会をハックしてやるぜってところまで行くに決まったいる。これまで散々ハックされてきたんだもの。ただ、キリスト教世界はそこまで譲歩する気は毛頭ないから、中東問題は当事者で解決してねと突き放す。
このことを前提にモサドと「黒い9月」の戦いを見ていくと他人事になってしまう。だから、スピルバーグはあえてミュンヘンオリンピック事件自体の描写を省略したのではないかとわたしは思った。そして、同時に、日本で生まれ育った人間として、1972年にまだ生まれていなかった世代として、それほど西洋社会に大きなインパクトを与えたミュンヘンオリンピック事件の詳細について知りたくなった。ただ、意外と詳しく学べる教材はなく、周辺情報を少しずつ得ていくことしかできなかった。
そんな中、『セプテンバー5』という映画が制作されたと聞き、密かに期待を寄せていた。なんでもミュンヘンオリンピック事件を生中継したABCの放送スタッフ側の視点であのときなにが起きていたのかをドキュメンタリーテイストで描いているというのだ。
日本では昨日の2月14日の公開だった。もちろん、初日に行ってきた。すごい映画だった。事実をもとにしたフィクションなのは承知の上で、報道する側の理屈と葛藤、功と罪、喜びと絶望が痛々しいほど克明に再現されていた。
夜中、オリンピックの中継スタジオで仕事をしていたABCスタッフは選手村からパパパンッという銃声を耳にする。すぐになにかあったらしいという噂が広がる。
地元のラジオ報道によると、パレスチナの武装組織によってイスラエル人選者の宿舎が選挙されたことが判明。すでに2人を殺害し、残り9人を人質にとり、イスラエルおよびドイツ政府に拘束されている仲間の解放を要求しているという。
現場から一番近い地の利を活かし、ABCのスポーツ局はスクープとして事件の様子を生中継すると決める。プロデューサーは現場のリアルな空気を伝えられるのは我々だけだと熱くなり、放送枠を他のテレビ局と交換してもらったり、アメリカ本社の報道局の意見を無視したり、情熱的に突き進んでいく。まるでスポーツを実況するように事件現場を報じ始める。
そのうち警察無線をジャックして、封鎖されている選手村内部に侵入し、対テロリスト作戦の現状を解説するに至る。武力制圧をしかける場面もしっかり撮影。テレビに向かって、「そんなんじゃダメだよ」と警察にダメ出し。まるで昭和のお父さんがお茶の間で野球中継を見ながらヤジを飛ばすような雰囲気に。
ただ、そこでふと気がつく。もしかして、犯人たちも自分たちの放送を見ているのではなかろうか?
このあたりから空気が変わってくる。それまではスタッフの心情として、自分たちはここでいまなにが起きているのか、世界中の人たちに伝える義務があると信じていた。第三者として架け橋になるべく頑張ってきた。でも、その結果、警察の邪魔になり、人質の命を危険に晒しているんだとしたら、これはなんのための報道なのだろう。
また、慎重に情報の裏どりをしていた局員の疑問が胸に突き刺さる。犯人たちがオリンピックでテロを起こしたのは世界中の注目が集まっている場所だからだ。いま、我々はそんなテロリズムを詳細に生中継している。要するに我々はやつらの目的に協力しているようなものではないか?
いまとなっては当たり前な問いだけど、ミュンヘンオリンピック事件は史上初のテロリズム生中継なので、このときは前例がなく、どう判断したものか、迷いに迷う様子は身に迫るものがあった。なにせ犯人たちの呼び方を考えるとき、スタジオのほとんどの人間が「テロリストってどういう意味?」となる始末。まだ言葉自体も馴染んでいなかったことが伝わってくる。
また、テレビマンの常識に則れば、こういうことを放送してこそのテレビだろって話でもあるから辞める決断はなかなかできない。もともとテレビは前代未聞なものを流すことに意義があるとされていた。誰もがこぞって、みんなが見たことない衝撃的な出来事を大衆に届けようと躍起になっていた。なんならオリンピックの競技を撮影する理由だって、本質的には同じなのだ。
みんな、言葉にはしないけれど、頭の中には1963年のケネディ大統領暗殺事件の映像が流れていたはず。もしかしたら、この中継はそれに匹敵するものになるんじゃないか、と。
なるほど、彼らにとってみれば、目の前で大きな事件が発生し、たまたま中継できる環境があるということはその仕事をやってきた理由の答え合わせのような印象があったのだろう。もし、放送しなければ一生後悔するかもしれない。だったら、やって後悔する方がいいじゃないかと主観的に考えたとしてもおかしくはない。下手したら、他の誰かに先を越される。そんなバカな話はないのだから。
この理屈はすべての職業において当てはまる。明確なチャンスが手の届くところにあるとき、人は誰しもイカロスとなる。そして、太陽に近づき過ぎて翼は燃え、海へと真っ逆さまに落ちていくのだ。
マスメディアの暴走という文脈でミュンヘンオリンピック事件はたびたび取り上げられてきた。その説明において主語はマスメディアなので、けしからんという話になりがちだし、わたしもそう思ってきた。しかし、冷静になってみれば、マスメディアという概念を構成しているのは一人一人の人間である。その決断に至るまでの過程は想像できないほど複雑、かつ、宿命的なものだった。
そう考えると我々に必要なことは運命に抗う勇気なのかもしれない。やらない後悔するよりもやって後悔する方がいいなんて甘い言葉に騙されず、やらない後悔を受け入れる強さが求められている。
思うに、結果が重視され過ぎている。勝てば官軍じゃないけれど、最終的に成功したら、途中の倫理違反なんてどうでもいいと無視される傾向が多分にある。無論、失敗すれば責任問題に発展するわけだが、それってギャンブルと変わらない。
気づけば、責任って、カジノにおける賭け金みたいなものになっている。そりゃリスクをとって利益を最大化したくなるだろうし、隠せるのであれば、失敗を可能な限り隠したくもなるだろう。
いや、そんなんじゃダメだよね。
過程にこそ目を向けなければ。最終的には成功したとしても、たまたま起こらなかった悲劇について心を寄せなくては。なんなら、失敗をなかったことにしたい連中の思惑によって、悲劇は起こらなかったことになっているだけなのかもしれない。
というか、ここで終わりという線引き自体怪しいものだ。1989年、フランシス・フクヤマはソ連崩壊を受けて『歴史の終わり』を執筆した。
国際社会において民主主義と自由経済が勝利をおさめ、社会制度の発展は完成を迎えたので、平和と自由と安定は無期限に維持されるはずという仮説を打ち立てた。でも、どうだろう。それから35年が経ち、わたしたちはウクライナとロシアの戦争を見ている。イスラエルとパレスチナの戦争を見ている。アメリカと中国はいつ戦いを始めてもおかしくはない。歴史は終わってなんかいなかったのだ。
人間が生きている限り、物事は続いていく。どんな出来事も原因を探っていけば、過去のなにかがつながってくる。生きるとは伏線を張ることであり、わたしたちは誰かの伏線を回収しながら生活を続けていくしかないのだ。その都度ビックリしたり、感動したり、劇的なリアクションをとることも可能だけど、果たして、そんな暇はあるのだろうか。すぐそこにも拾わなきゃいけない伏線が落ちているわけで、うかうかしていると見逃してしまう。
淡々と毎日を過ごす。丁寧になにが起きているのか観察していく。リターンが大きいからと言って、そのリスクはとっていいのか、倫理観に基づいて考える。大成功は諦める。その代わり、大失敗も避けられる。成功or失敗という両極端な軸を捨て、この失敗であれば自分は引き受けられるという範囲での行動を心がければいいのではないか。
そりゃ、そんな人生は面白くない。刺激もなにもあったもんじゃない。でも、人生なんて、本当はそんなものなのかも。面白さは幻想で、退屈に耐えられない人間の弱さが脳内麻薬で作り出した嘘の世界。あらゆる中毒状態と変わらず、その先に待っているものは身の破滅だけである。
とは言え、そういう考え方の人が増えれば、相対的にリスクを取る人たちの競争率は下がるので、大成功を狙うことの旨味は増すことになる。してみれば、需要と供給の関係でやっぱりリスクを取ろうと思い直す揺り戻しが発生する。たぶん、そういう行ったり来たりの繰り返されてきて、いまの人類があるのだろう。
昨今の国際情勢を見ていて、つくづく感じる。わたしたちはまたしても太陽に翼を燃やされる。再び海に落ちて死んでしまう。
これ以上飛んだら危険だということを認識するためにも過去の失敗を学び、しつこいくらいに語り合わなくては。
マシュマロやっています。
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