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【映画感想文】休憩含めて約4時間! だけど一瞬に感じる面白さ! ホロコーストを生き延び、アメリカに渡るも痛みに耐え続けたユダヤ人建築家の到達点に圧倒される……と、あっさり感動してしまう我々の認知の是非を問うてくる実験的なフェイク作品 - 『ブルータリスト』監督:ブラディ・コーベット
とにかく上映時間が長いことで話題の『ブルータリスト』を見てきた。チケットを買ったときに表示された予定時間が予告編と休憩を含めて約4時間だったのでさすがに身構えた。集中力が持たないんじゃなかろうか、と。
しかし、結果的にめちゃくちゃ面白くって、あっという間に感じられた。古い映画をビデオやDVDで見たときに出てくるインターミッションを生で見れたのも感動だった。ちなみに公式に撮影OKが出ているので、配給会社も劇場もこの珍しさを楽しんでいる。
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最近、超大作の上映時間が3時間を超えるケースも増えてきたので、全作品取り入れた方がいいと思った。途中、トイレに行きたくなったらどうしようという不安がゼロになるので、安心して飲み物を飲むことができた。また、仕事の連絡が入っていないかのチェックもできるし、友だちと感想を言い合うこともできるし、長時間の拘束を理由に映画館を避けていた人たちを呼び込むきっかけになりそう。まさにWin-Winというやつだった。
もちろん、没入感は減少するため、作品に力がなければ「休憩を挟んでまで観たくないよ」と言われてしまう恐れはあるので、作り手としては悩ましいところなのだろう。上映回数も回せなくなるし、ヒットしなければけっこう悲惨。諸刃の剣ゆえにインターミッションの再普及はなかなか難しいのだろう。
そういう意味では『ブルータリスト』は見事なバランスだった。作り手の意図が完璧にハマっていた。
物語はハンガリー出身のユダヤ人建築家ラースロー・トートの半生を描いている。バウハウスで学んだ彼はヨーロッパで才能を認められていたけれど、第二次世界大戦中、ドイツ・ワイマール近くのブーヘンヴァルト強制収容所で数年を過ごした。戦後、アメリカに移住。ナチスが破壊しようとした芸術的才能を復活させて、1980年、第一回建築ビエンナーレのイスラエル館では彼のこれまでの作品が"The Presence of the Past"(過去の現在)として展示された。そんな彼が移民として味わった知られざる痛みの数々を明らかにする衝撃作こそ、映画『ブルータリスト』なのである。
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撃たれるかもしれないと怯えつつ、鼻を折りながらも走っている列車から飛び降りて、大統領の気まぐれでなんとか港から出港し、ようやくやってきたニューヨークで目にした自由の女神は天地逆。憧れのアメリカンドリームは不穏な空気をまとっていた。
USスチール本社があることで知られる「鉄の町」ペンシルバニアで暮らす従兄弟を訪ねる。その家具屋でラースローは自分なりに一生懸命働くのだけど、敬虔なカトリック信者たちはよそ者を歓迎していない。汚い犬のように放り出されてしまう。だけど、大富豪に過去の実績を気に入られ、わがまま放題な要求を飲むことを条件に巨大なコミュニティセンターの設立を依頼される。その後、とんとん拍子で政治の中枢ともつながり、未だ、ヨーロッパで足止めを喰らっていた妻と姪を移住させることにも成功。ようやく戦争によって奪われた人生を立て直せるはずだったけど、事故や事件に巻き込まれ、ラースロー・トートの心と身体はボロボロになっていく。
それでも、彼と妻は暴力に抵抗し、権力者と真っ向から対立していく。こうして完成した『マーガレット・ヴァン・ビューレン・コミュニティセンター』は光で構成された十字架が印象的な礼拝堂として、いまなお、ランドマークとして丘の上からペンシルバニア州ドイルスタウンを優しく見守り続けている。
ラースローは「なぜ建築をするのか?」と問われ、「建築はそれ自体に意味がある」と答えている。第二次世界大戦で人々が殺され、文化が破壊され、なにもかもがなくなってしまったけれど、自分の使った建築はいまも変わらずそこにあり続けている。長い時間に耐え抜くことで政治から解放されたところで建築は価値を示せるはずだから、と。
1980年、第1回建築トリエンナーレが開催されたとき、イスラエル館はラースローの奇跡を振り返った。妻を亡くし、車椅子での移動を余儀なくされるほど年老いてしまったラースローの代わりに壇上でスピーチするのは彼の姪。
「アメリカに渡った叔父が設計した『マーガレット・ヴァン・ビューレン・コミュニティセンター』はどの部屋もとても狭いです。叔父が収容されていたブーヘンヴォルト強制収容所で過ごした部屋と同じ寸法を再現したのです。ただ、ひとつ違う点があります。天井が高いこと。そこには自由があるのです。また、叔母が収容されていた強制収容所のデザインも織り交ぜていて、ここでなら二人はいつでも再会できるようになっているのです」
当時のビデオと再現映像を織り交ぜながら、映画は姪がラースローの言葉を引用する形で締め括られる。
「重要なのは道のりではなく、到達点である」
……と、それっぽいセリフについ感動してしまうというのが表面的なストーリー。ぼーっと画面を見ているだけだとユダヤ人建築家の人生に共鳴し、その頑張りに胸を打たれ、こちらの生き方まで変わってしまいそう。そして、イスラエルを支持したくなってしまう。
でも、本当にそうだったのか? と立ち止まらなくては危険なのだ。むしろ、映画『ブルータリスト』の本当の目的は別にあり、そうやって劇的に演出された物語を見たとき、わたしたちは簡単にエンカレッジされ、また、作中で描かれている人たちを応援したくなってしまう我々の認知の是非を問うことにあるのである。
どういうことかと言えば、ハンガリー出身のユダヤ人建築家ラースロー・トートは完全に架空のキャラクターで、いかにも実在する人物の伝記映画のように仰々しく作ってはいるけれど、よく見ると諸々の演出は安っぽいフェイク大作なのである。
わたしは前情報を入れずに見に行ったので、最初、まんまと騙された。でも、歴史的に重要そうなのに聞いたことない話がバンバン出てきたり、この規模で上映する作品の割にはプロパガンダ色が強かったり、バスの車内が戦後のはずなのに現代のものを普通に使っていたり、細かい違和感が気になった。そのため、15分のインターミッション中にネットで調べたところ、『ブルータリスト』の狙いを知るに至った。
こんな謎解きみたいなスタイルの映画鑑賞初めてだった。まったく新しいエンターテイメントの形で楽しくて仕方なかった。さらに現代の映画業界に対する皮肉も効きまくっているので、そりゃ、評価もされるわけだと合点がいった。
配給のパルコもそのことを存分に楽しんでいて、入場特典のパンフレットも最初は本当にそういう人がいて、そういう場所があるんだと信じてしまうぐらい、よくできていた。
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さて、仕掛けがわかってしまったら、壮大なフリをした低予算映画だとよくわかる。特にラストの第一回建築トリエンナーレのちゃちさと言ったら。これまでの必要以上に壮大な撮り方がぜんぶフリであったと言わんばかりのボケっぷりに笑いを堪えられなかった。
エンドロールのふざけ具合も秀逸というか、これでもかって軽い音楽と斜めに文字を流す斜に構え方というか、ひたすらセンスにあふれている。真面目に見ていた人たちは「感動的な話だったけど、ラストはよくなかった」と苦言を呈したくなるはずで、たぶん、鑑賞後にネットで仕掛けを知り、「騙された!」となるのを見越した意地の悪さでわたしは大好きだった。
また、実話をもとにした映画の定番演出として、ラストにモデルとなった本人の映像が出てくることは多いけど、それをそのままパロディしていた。画面ではなんの説明もしていないのに、観客であるわたしたちは早合点して、こういう感じの人だったんなぁ、と誤解してしまうヤバさがよくわかる。
その上、姪のスピーチ内容も4時間近く散々見てきたラースローの哲学と微妙に違っている。第一、シオニズム運動の象徴として使われるなんて、政治に取り込まれまくっているじゃないか。これまで見てきた話はなんだったんだよって、呆れてしまうのが普通だろう。到達点が大事っていうのも4時間近く大河ドラマを見させておいて、ちゃぶ台返しもいいところ。
しかし、多くの痛みを背負ってきた人たちの言葉は力強く、理屈が通っていなかったとしてもわたしたちは素直に聞いてしまうもの。たぶん、フェイクと知らずに見ていたら、姪の言葉こそ、この映画のメッセージなんだと勘違いしてしまうだろう。
いや、ある意味ではこの言葉こそメッセージなんだよね。壮大な演出をしてしまえば、真実と関係なく、政治的な影響力なんて簡単に作れるという。AI技術が発展していけば、こんなもの、低コストで量産しまくれるよってことが恐ろしくも示されている。
なにせ、『ブルータリスト』もコストは900万ドルと超低予算。数千万ドル、数億ドルの制作費をかけることも当たり前になったビッグバジェット主義なハリウッドの真逆をいっているにもかかわらず、観客は久々に壮大な映画を見たという思っている。こんな皮肉な話はない。結局のところ、インターミッションを入れるというのも壮大さをアピールするための演出に過ぎず、それが功を奏しているのだ。
そう考えるともっと規模が小さい形でフェイクな歴史を作ったとすれば、気楽に人々の認識を書き換えることは可能である。実際、映画でなかったとしても、SNSの匿名アカウントで痛みを訴えてしまえば、わたしたちは簡単に心を打たれる。叔父さん叔母さんのエピソードなんて並べられてしまったら、頑張れ! ってなっちゃうよね。SNSで実話という設定のフィクションにわたしたちはすっかり毒されていてもおかしくはない。
長い長いフィルムのファーストショットとラストショットが主人公であるはずのラースロー・トートではなく、どちらも姪の顔のアップだったのはこれが彼女の語る物語であったことを意味している。彼女の望んだ通りにラースロー・トートの人生を受け取ってしまっている。わたしたちがSNS上で応援している誰かの物語も、姿の見えない第三者の意図によって作られた嘘の人生だったりしてね。こうなってくるとなにも信じられなくなってしまう。
この作品はフェイクであることを明かしているから、メタ的にそういう構造として理解できるようになっているからいいけれど、政治団体や宗教団体がその身分を隠し、種明かしをすることなく同じことをやったとしたら、わたしたちの認識にはとんでもない脆弱性があるということが逆説的に示されてもいる。なんなら、すでにわたしたちの認識はハックされていると言ってもいいのだろう。いわゆる現代戦争における「認知戦」とはこのことなのだから。
一方で、芸術のエンカレッジ性の高さは脅威であると同時に救いでもある。『ブルータリスト』では一箇所を除き決定的なシーンは基本的に描かれない。前後を映すことで、なにかあったのだろうと察するように編集されている。そのため、わたしたちは語られている以上の内容を読み込んでしまうわけだけど、それは弱者の味方になりたいという本能的な性質なのかもしれない。卑怯な連中はそれを悪用するかもしれないが、冷静になってみれば、被害者の声はちゃんと人々に届くという心強さとそれは表裏一体でもある。
権力者はわたしたちに危害を加えた後、お前みたいたやつの言葉を誰が信じる? と脅すことで被害者の声を殺してきた。多額の賠償金を払うことで守秘義務を結び、強引に黙らせてきた。
でも、本当はそうじゃないのだ。わたしたちのような弱い人間の声はちゃんと届く。だって、みんなもわたしたちと同じ弱い人間なんだもの。少数の権力者なんて、庶民がまとまり、数の暴力で押し切れば簡単に倒せる。これぞ民主主義のいいところではないか。
SNSの炎上から簡単にキャンセルカルチャーに発展してしまう現代の危うさはネガティブだけど、その力をクリエイターに対してではなく、既得権益者たちに向けることができればこんなにポジティブな話はない。物語を作り、自分の地位を固めている見えない権力者たち。そういう連中を引きずり出して、わたしたちは新たな物語で対抗すべきなのだ。
みたいに考えていくと、最終的に陰謀論に辿り着いてしまうんだよね笑
たぶん、こんな風に途中の道のりがどんなにまともであっても、結論部分で間違ったところに行ってしまうから我々の認知はややこしい。たいていの場合、陰謀論者の考えていることはぜんぶ正しいのだ、仮説と現実を混同しているという根本的な間違いを除いて。
従って、到達点同士で議論をしても噛み合わない。到達点でぶつかり合う限り、わたしたちの分断は深まりばかりでどうしようもない。ただ、道のりで交わす言葉なら通じ合えるかもしれない。
大切なのは道のり。到達点ではない。
マシュマロやっています。
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