【映画感想文】それでも荻上直子は閉鎖的なユートピア世界を描き続けるし、描き続けなくてはいけない - 『まる』監督:荻上直子
荻上直子監督の新作『まる』が凄かった。堂本剛を主演に迎え、現代アートのスタジオをクビになった画家がなんとなく描いた丸がたちまち評価されてしまって、正直しんどい状態に陥っていく不条理劇だった。
この丸は円相と呼ばれ、禅の世界では悟りや真理、仏性、宇宙全体などを円形で象徴的に表現したものとされるが、その解釈は見る人に任されるとWikipediaに書いてあった。劇中でも、堂本剛が「あなたの円相を100万円で買い取りたい」と言われ、「……えんそう?」となりながらWikipediaを調べていた。
なにがどういいのか、よくわからない。誰でも描けるじゃんと言われても、反論はできない。なんなら、「100万円もらえるんだったら」と新たな丸を描いてみたところ、「この丸には欲が詰まっている」とダメ出しをされてしまうが、画廊と手を組み発表した新しい丸は「素晴らしいですね」と褒められたりする。
仕事をなくした主人公にとって、最初に描いた丸は社会で乱れてしまった心を整えるため、一回、蓋を閉じるという意味合いが強かった。とりあえず、生きていかなくてはいけないわけで、コンビニのバイトでもなんでも、生活費を稼がなければ。
業界内の後輩たちからは憐れみの視線を向けられ、久々に会った同級生からはバカにされ、そのぜんぶを受け止めていたら頭がおかしくなってしまう。ワガママだろうと、自分勝手だろうと、精神的にクローズドな領域に閉じこもる必要があるときは誰にだってあるのだ。
思えば、約二十年前、荻上直子という監督はそういうクローズドなユートピア空間を作り出す新しい映画作家として、我々の前に颯爽と現れた。
2006年公開の『かもめ食堂』は小林聡美演じる40代のいわゆる普通の女性がフィンランドで食堂を開き、毎日できることをコツコツ積み重ねた結果、現地の人たちに受け入れられていくというもの。そこには苦労らしい苦労もなく、努力らしい努力もなく、仲良くできる人たちとだけ仲良くしていく先に幸福があるという夢のような物語だった。
その設定に当時から批判は多かった。飲食店の経営を舐めているとか、外国で商売をやって成功するのはこんな簡単なわけないとか、彼女たちの資金源が謎過ぎるとか。
映画に現実的なものを求める人たちからしたら、たしかに我慢ならない部分は多々あったのかもしれない。ただ、『かもめ食堂』という映画が示そうとしたのはそういうことではなかった。現実があまりにしんど過ぎるから、一回、すべてをリセットし、自分らしくいられる場所を見つけたいよねという提案がその本質だった。そして、現実に疲れた多くの観客がそのコンセプトに救われたから、異例の大ヒットを記録したのである。なのに、それを現実的じゃないと批判するのはナンセンス。作る側も見る側も、そんなことはぜんぶわかった上で楽しんでいるのだから。
いまとなっては2000年代もむかしだけれど、振り返りみれば、あらゆるところで比較がなされる時代だった。ITバブルで成り上がった起業家たちが六本木ヒルズで暮らし始め、就職氷河期で苦しんだ同世代に対し、勝ち組として振る舞っていた。酒井順子の『負け犬の遠吠え』がベストセラーとなり、「どんなに美人で仕事ができても、30歳代以上・未婚・子なしの3条件が揃った女は負け犬」ということになってしまった。インターネットよりテレビの方が圧倒的に影響力がある中、テレビ朝日系列の『ロンドンハーツ』で「格付けし合う女たち」が大ヒット。学歴、年収、美貌、恋愛などなど。そこら中であらゆる比較が繰り広げられていた。
その頃、わたしは小学生とか中学生とか、まだまだ子どもだったけれど、息苦しいなぁと感じていた。頭がよくて、仕事ができて、容姿も整い、恋愛や遊びが充実している人たちを勝ち組と規定するなら、そのどれも持ち合わせていない自分が負け組になってしまうのはあまりに明らかだったから。
ブラウン管の向こうでバカにされている杉田かおるや梨花を笑えなかった。そういう役を演じているだけとわかっていても、西川史子の高飛車キャラをよくは思えなかった。なんというか、みんな、正直しんどそうだった。
SMAPの『世界に一つだけの花』に感動していた大人たちが舌の根も乾かないうちにナンバー1を目指し、オンリー1な人たちをバカにする光景はいかにもグロテスクだった。
だから、Pasco 超熟食パンのCMで流れた荻上直子の映像は斬新だった。自然体の小林聡美がお洒落なキッチンで卵を焼き、ベーコンを焼き、イングリッシュマフィンでサンドイッチを作り、自分で食べる。なにも言わず、楽しげに笑う。美味しいですべてが完結する世界。他者の評価なんてどうでもいいが見事に体現されていた。それが『かもめ食堂』だった。
2000年代後半にかけて、荻上直子はそういうクローズドなユートピア空間をどんどん掘り下げていった。2007年の『めがね』では仕事すら放棄し、南の島で黄昏れることに生きる意味を見出そうとした。2010年の『トイレット』では日本人の出演者がもたいまさこのみという冒険作で、わたしたちがしんどさを感じているここ以外の場所にも世界があり得るのだともがきまくっていた。特に、リーマンショックで先行きがますます不透明になる中、この試行錯誤は輝いて見えた。
この頃、荻上直子の映画を見ることはわたしにとってセラピーだった。正直しんどい日々から抜け出して、ほっと一息つくために必要な二時間だった。
だが、その後、2011年に東日本大震災が起こり、世の中の空気はガラッと変わってしまった。いくらクローズドなユートピア空間を築き上げようと、外からとんでもないダメージが加われば、簡単に壊れてしまうということを我々は痛感させられてしまったのだ。
2012年公開の『レンタネコ』はネコを媒介にクローズドな空間とクローズドな空間をつなぎ合わせ、強固な関係性を目指そうという意欲は見られたけれど、観客に共感と納得を与えるまでは至らなかった。このとき、荻上直子的なファンタジーは極限に達していたので、これが通用しない事実はファンとしても辛かった。
それから、しばらく荻上直子監督の沈黙期があった。政権は変わり、第二次安倍内閣が発足し、アベノミクスで株価がどんどん上がっていった。SNSの普及によって、あらゆるものが比較されていく傾向に拍車がかかっていく中で、『かもめ食堂』のお金に無関心な世界観は気持ち悪いとまで言われるようになっていった。資本主義は内面化し、その是非を問うような対象ではなくなってしまったのだ。金は稼いでなんぼ。創作物は見られてなんぼ。格差はどんどん開いていった。
こうなってしまうといくらクローズドなユートピア空間を使ったとしても、外から攻撃を受けざるを得ない。フィンランドで細々と食堂を経営していても、旅行でやってきた日本人が勝手に食レポをネットに載せてしまうだろう。Googleマップは登録されて、知らないところで星をつけられてしまう。そして、マイペースを維持しようとしたら偉そうな店としてアンチコメントが寄せられてしまうかも。フィクション映画である『かもめ食堂』に対してすら、ひどい言葉が飛び交う現状を見るに、グローバリズムが進み切った世界に逃げ場はどこにもないのである。
だから、2017年に公開された荻上直子5年ぶりの新作『彼らが本気で編むときは、』は衝撃だった。またしても題材はクローズドなユートピア空間なのだが、LGBTと子育ての問題にフォーカスを当てている点が『かもめ食堂』〜『レンタネコ』に至るまでの流れと志を異にしていた。あえて社会との衝突を避けてきた荻上直子作品に世間の声という暴力性が登場するようになった。
その後、2022年公開の『川っぺりムコリッタ』では元受刑者が更生していく中でぶつかる社会との衝突を、2023年公開の『波紋』では新興宗教、震災、老々介護や障害者差別など、クローズドなユートピア世界の外側に広がるディストピアまでカメラで収めるようになっていった。
こうして、2010年代後半から2020年代前半にかけて、荻上直子作品はサークルの内側から外側へと立ち位置を大きく変えていった。それでも、なお、サークルを描き続けることだけはやめていなかった。血のつながらない家族だったり、同じアパートで暮らすヤバそうなお隣さんだったり、新興宗教のつながりだったり、客観的な評価はともかくとして、当人はその人たちがいなきゃ生きていけないというリアルから目を逸らさなかった。
かつての荻上直子作品ではオブラートに包みまくって、自由人というくくりでまとめられていた謎のつながりを大衆が気持ち悪いと無粋に言い放つようになった昨今、あえて、気持悪いですけど何か? と開き直る形でクローズドなユートピア空間は再定義された。無論、サークルの中にいる当事者たちも自らの異常性に無自覚なままではいられない。
みんな、いつかは出ていくつもりではある。ただ、外野からヤイノヤイノ言ってくるあんたたちとはうまくやっていける自信はない。じゃあ、どうするのか? 円の外側ではなく、この穴の向こう側に突き抜けてやるよ! 荻上直子は新作『まる』でそんな風に奥行きへ可能性を見出す形で新機軸を打ち立てていた。
荻上作品をずっと追いかけてきている自分としてはそのことが嬉しくて、嬉しくて堪らなかった。なにせ、クローズドなユートピア空間の内側にいながら、閉鎖性を打破したくという発想は荻上直子監督の長編劇場デビュー作『バーバー吉野』で目指していたことに一致するから。
山奥の田舎町には床屋が一軒しかなくて、そこで暮らす男の子たちはみんな同じ髪型をしていた。前髪ぱっつんのおかっぱスタイル。めちゃくちゃダサいが伝統なので、男の子たちは従わざるを得なかった。ところが、そこに東京から転校生がやってきて、その髪型を断固拒否する。その意見に賛同した仲間たちは自由な髪型を求めて、大人たちと戦いを繰り広げる。みたいな話。
このときから荻上直子作品はクローズドなユートピア空間を題材にしていた。構造だけ抽出すれば、外からやってきた若者に田舎の風習を押し付けようとする様はホラーなのだけど、あくまでコミカルタッチに演出されていて、伝統を守りたい側にもしっかり寄り添っていた。無関係な人たちの暴力から身を守るための防波堤として、ある意味で世間と一線を引く必要性は抑えつつ、その中で一緒にいるからといって、必ずしも一枚岩なわけではないから、互いに話し合っていくことの重要性も示されていた。
約二十年。日本では珍しく作家性をふんだんに打ち出す形で映画を撮り続けてきた荻上直子監督。そんな彼女の創作がぐるっとひと回りして、『まる』という作品で最初の地点に戻ってきたかのようで感動した。遠くから見れば、それは振り出しに戻ったみたいに見えるけど、きっと螺旋階段を登るようなもので、以前より高いところから物事が見えるようになっているに違いない。
丸を描くとき、自分が世間を締め出しているのか、世間から自分が締め出されているのか。どっちかなんてわからない。でも、丸をおまんじゅうに見立てて食べちゃうお坊さんがいたように、結局はどう見るかにかかっている。
よりよい見方をみつけることが大切で、丸自体をあれこれ言っても始まらない。だから、荻上直子は閉鎖的なユートピア世界を描き続けるし、描き続けなくてはいけないのだろう。少なくとも、そうしていく決意のようなものが『まる』で語られているように感じた。
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