【読書コラム】ストレスが地球をダメにする - 『家庭用安心坑夫』小砂川チト
月に一度、大学時代の友だちとzoomで読書会をやっている。せっかくなら、ふだん、自分だったら買わない本を読もうということで、毎回、文学誌の新人賞を受賞した小説が課題本になる。だいたい長さは100〜200頁と忙しいメンバーにもちょうどいい。
今月は小砂川チトさんの『家庭用安心坑夫』が課題本だったのだけど、これがめちゃくちゃ面白かった。
純文学なので、ストーリーはあまり重要じゃないかもしれないが、団地で暮らす限界主婦が「父」とはなにか、「夫」とはなにか、「家族」とはなにか、希望と絶望を乱高下しながら追い求める現代もの。
ただ、設定がとてもユニーク。
自尊心を失った主人公の視界にあるマネキン人形が現れるようになる。それは彼女の地元・尾去沢鉱山のテーマパークに飾られている尾去沢ツトムで、彼女が自分の父と信じる存在だった。
というのも、母子家庭育ちの彼女は幼い頃、そのテーマパークで母親からマネキンが父親であると教えられ、長いこと、本気で信じてきたのである。
大人になり、夫と結婚し、尾去沢ツトムのことは忘れていたはずなのに、なぜか、テレビで見た渋谷の街頭映像だったり、ホームセンターの通路だったり、自宅の窓から見下ろした道だったり、そこら中で尾去沢ツトムを目にするところから物語は始まっていく。
かなり普通じゃない。どう考えてもおかしくなっている。
でも、彼女の置かれた状況を考えるとそれも納得。
舞台はコロナ禍。ステイホームが必要だった頃。特に仕事をしていない彼女は自分の家で窮屈さを感じるようになる。
在宅勤務に変わった夫に気を遣いつつ、まわりの音がやたら意識されてしまう。上に暮らす親子のダッタンバッタン、お隣さんの喘ぎ声。加えて、仕事もしないでぐーたら過ごす己に対して、自戒の念も膨らんでいく。
要するに、ストレスが溜まりに溜まって、炸裂してしまった結果こそ、彼女の異常なのである。
これはスティーブン・キングの論理と同じだ。
『キャリー』では過酷ないじめに耐え抜いたことで少女のサイキックは開花する。『シャイニング』では閉ざされた雪山のホテルで追い詰められた父親が幽霊たちとつながってしまう。『ペットセメタリー』では子どもを亡くした悲しみから夫婦は呪いにアクセスする。
人間、キャパシティを超えたストレスに晒されたとき、見えないものが見えたり、まわりの時空が歪んだり、つながらないものとつながってしまったとしても不思議ではない。
そのことを表すかのように、『家庭用安心坑夫』は限界主婦の話と並行して、かつて実在した人物としての尾去沢ツトムの話も描かれる。
尾去沢ツトムは炭鉱内で事故に遭い、亡くなってしまったらしい。だとしたら、彼もまた重度のストレスに晒されていたわけで、2020年に暮らす限界主婦と精神的に交わるだけの境遇にある。
中国語でストレスは「压力」と書くらしい。大学生の頃、バイトで一緒になった北京出身の子がメールで「压力! 压力!」と身近な不満を表面していた。
英語の"stress"を直訳すると「圧力」だし、ニュアンスは近いと思いつつ、日本語では精神的な負担に「圧力」という言葉は使わない。普通、カタカナで「ストレス」だ。そのため、ストレスの実態をいまいち掴めないでいるけれど、本当のところ、物理的な圧迫感のことなのかもしれない。
してみると、尾去沢ツトムが味わったストレスは相当なものだろう。もしかしたら、1936年に尾去沢鉱山で発生した鉱滓ダム決壊事故の被害者たちともつながっていたのもしれない。あるいは江戸末期から明治初期にかけての尾去沢銅山事件で苦渋を飲んだ人たちの思いとも。
だいたい、鉱山の通路って、産道のような形をしている。そこに飾られたマネキンを父親と信じるなんて、なんだか受精前まで戻って、自分になる精子を選び直すような矛盾がある。
理科の授業で出産について教わったとき、一回の射精で約五億の精子が放たれ、そのうち、ひとつしか卵子と結びつかないと習った。先生は言った。
「みなさんは五億分の一の競争に勝ってきたんですよ。だから、何事も簡単に諦めるのではなく、一生懸命我慢張らなくちゃいけませんね」
そんなエールを聞きながら、わたしは絶望した。なんてこった。わたしたちは生まれる前から競争を強いられていたなんて。
ぎゅっと抱き締めるなんて言い方をしたらロマンチックだけど、セックスもまた、とどのつまりは圧力の連続だ。受精もまた圧力だし、出産も圧力。揺りかごから墓場まで、人生の至るところにストレスは張り巡らされている。
森高千里は歌った。
この曲がリリースされたのは1988年のこと。女子高生コンクリート詰め殺人事件が起き、宮崎勤の東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件が起き、未解決のままな名古屋妊婦切り裂き殺人事件が起きた年である。
女であることに絶望したくなるような出来事ばかり。アイドルとして、森高千里はあくまで明るく元気に振る舞っているけれど、自ら作詞した言葉は時代の空気を敏感に反映している。
さて、そんなストレスの限界を迎えた主婦の物語はどのような結末を迎えるのか。『家庭用安心坑夫』が群像文学新人賞を受賞した際、審査員だった町田康はこんな風に評している。
そう。
これは令和版イプセン『人形の家』なのだ。
弁護士の妻ノラは夫の危機を救うため、一人懸命に頑張るも、その努力を夫は理解してくれない。たしかに寵愛を受けてはいるけれど、これじゃあ、お人形として愛でられているのと一緒じゃないか! その発見から、ギリギリで保たれていた家庭を捨て去り、人間として生きていくため、一人、家を出る覚悟を決める。
フェミニズムの始まりを予感させる作品として、『人形の家』は未だに賛否両論を呼び続けている。新しい女性の生き方と歓迎される一方、そんな女は売春でもしなきゃ生きていけないよと非難する声もしばしば。
これに対して、
「ノラは野良仕事をしてでも生きていくのよ」
と、答えた女優さんがいたんだとか。
もちろん、くだらない駄洒落なのだけど、わたしはこの言葉に深く感動した。お嬢様として育ち、社会的ステータスのある夫と豊かな暮らしをしてきたノラが野良仕事をするのは絶望的なことだろう。でも、その絶望の先に人間としての自分が見つけられるなら、これほどの成長はない。
町田康の言う「絶望的成長小説」が意味しているのも、きっと、同じなんじゃなかろうか。そんなことを思ってしまうほど、『家庭用安心坑夫』の居場所を失った主人公にわたしは強く共感した。
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