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【映画感想文】拳銃を奪われ、自信を失った父親は家父長制を維持するために女たちを支配し始める - 『聖なるイチジクの種』監督:モハマド・ラスロフ

 とんでもない映画を観た。あまりの衝撃にエンドロールが流れ終わった後もしばらく立ち上がることができなかった。

 イランの映画『聖なるイチジクの種』は前作が政府に目をつけられて、有罪判決「鞭打ち・私財没収・禁固刑8年」を下されてしまった監督がなんとか出国、命からがらカンヌ映画祭までやってきたという壮絶なエピソード付きの作品。

 物語の軸となるのはお父さん。彼は長年、神権政治の裁判所で従順に働いてきた。世の中の流行りなど関係なく、いつか判事になりたいと出世を夢見て真面目に頑張ってきた。そんなある日、ついにチャンスがやってくる。仲のいい同僚の口利きで革命裁判所の調査官に登用されたのだ。

 革命裁判所はイラン特有の司法システムでかなり独特。というのも、1979年のイラン革命の前後で性質が大きく変わっていて、ヨーロッパ型の近代法制度とイスラム法を分野によって使い分けている。具体的には家族法と刑事法だけはイスラム法で裁くのである。当然、手続きも異なってくるので一般裁判所と特別裁判所に管轄がわかれている。そして、特別裁判所の中でも国家安全保障に関わる犯罪を担当しているのが革命裁判所なのである。

 舞台は2022年。学生を中心に政府抗議運動が盛り上がりを見せていた。それに伴う逮捕者が増えていたので、主人公の一人であるお父さんにも声がかかった。これをチャンスと喜びも、恨みを買う仕事だからと自衛のために拳銃を配給され、ほんの少し心は重い。そのことを妻に打ち明けると、驚かれつつも「あなたの夢が叶うわ」と応援してくれる。

 彼女は彼女で夫の出世は嬉しかった。給料も上がるし、もっといい部屋に引っ越すこともできる。幼少期、酒とギャンブルで退廃した父親のせいで悲惨な生活を送った彼女にとって、安定した暮らしが理想だった。だから、妻として、母として、外で働く夫を支えなくてはいけないと一生懸命やってきた。

 それなのに二人の娘たちはわかってくれない。髪を染めたり、ネイルを塗ったり、スマホでくだらない動画を見てばかりいて、父親を尊敬しようとしない。ヒシャブデモにも共感する始末で、そのことを夫が知ったらと思うと怖くて仕方ない。

 ただ、娘たちはネットで自由に様々な情報にアクセスし、学校などでなにもしていない友だちが警察の暴力によって弾圧している姿を生で見ている。どうしてヒジャブを着用しないだけで、好きな格好をしただけで、わたしたちは殺されなくてはいけないの? と理不尽さに怒りを感じている。テレビで流れることだけが真実と思考停止に陥っている両親となにを話しても無駄と諦めているのだ。

 反抗的な娘たちに耐えられなくなったお母さんは夫に相談する。もっと子どもたちと向き合ってよ。調査官になってから朝早く出勤し、夜遅く帰ってきて、ほとんど家族と会話をしていないでしょ。忙しいのはわかるけど、あなたは父親でしょ!

 お父さんはわかったと応じる。頭はぼーっとしているけれど。なにせ、最近は一日に何百人という逮捕者を死刑にしなくてはいけなくて、当然、まともな調査なんてやれるはずもなく、ひたすら心を殺してきたから。最初は抵抗しようとした。でも、盗聴もされている革命裁判所内で政府の意向に逆らったらクビにされるのは目に見えている。そうなったら、この生活は続けられない。家族が路頭に迷うかも。従わざるを得なかった。

 四人家族。それぞれが胸に秘めた思いを知らないまま、夕飯、食卓を囲む。テレビでは抗議する若者たちが暴徒と呼ばれている。そのことに不快感を示した長女にお父さんが噛みつく。

「国家の人間はお前たちのために頑張ってるんだぞ。ネットのよくわからない情報なんかより、お父さんたちを信じたらどうだ。神を信じたらどうだ!」

「体制の中で体制を信じ、体制のために生きている人間の話なんて聞く意味がない」

 むぎーっとなって、お父さんは退席。部屋にこもってしまう。せっかく久々の一家団欒の予定が台無しとなり、絶望的な空気が家庭内に蔓延する。

 さて、この映画の本筋はここからスタート。どうしようもない夜が明け、お父さんがいつものように朝早く起きて、出勤準備をしていたところ拳銃が保管場所にないと気がつく。慌てて、引き出しという引き出しをひっくり返して探すのだけど見つからない。寝ていた妻を起こし、キッチンや風呂場も探す。娘たちを起こさせて、

「パパの拳銃を知らない?」

と、尋ねさせる。

「え? パパ、そんなもの持ってたの?」

 結局、拳銃は出てこないまま、お父さんは不安そうに家を出ていく。職場で仲のいい同僚に相談したところ、頭を抱えられる。

「大変なことになっちまったぞ。着任早々、拳銃を失くすなんて。無能の烙印を押されて、これまでのキャリアは台無しだ。いや、そんなことでは済まないだろうな。逮捕されてしまうかも」

 この一言でお父さんは事態の重さを知る。

「お前の話を聞く限り、家族の誰かが盗んだに違いない。尋問でもなんでもして、絶対に犯人を割り出すしかないぞ」

 自分の人生を守るため、お父さんは妻と娘たちを疑い始める。そして、妻も自分の生活を守るため、娘たちを疑い始める。その様子を娘たちは冷笑的に見ている。家族がどんどん壊れていく。

 もちろん、拳銃はペニスのメタファーであり、拳銃の喪失は去勢を意味している。去勢された父親が家父長制を維持できなくなっていく様子が象徴的に描かれているのだ。逆に、女たちが拳銃を持っているかもしれないという不安がいかに父親を暴力的に狂わせていくかも示されていて、男たちが権力に固執する理由も浮き彫りとなっていた。

 また、そういう信頼が崩壊していく家族の姿こそ、現在のイランの政治体制であるという批判的なメッセージにもなっていて、いま、同じ時代を生きているにもかかわらず、そんなことが許されていいのかという憤りをわたしたちは覚えざるを得なかった。特に演出として、娘たちが見ているSNSの動画は本当のものを使用していたので、より一層迫り来るものがあった。

 もはや隠すことができる時代ではない。権力者が権力者であるために必要だった隠蔽はもはや不可能。これまで、わたしたちは丸く収めるために我慢をしてきたけれど、実はそんなことする必要がなかったんだということに気がついてしまったのだ。

 セクハラもパワハラも大事にしたら自分も困るし、みんな困るし、わたしが我慢すればいいんだって弁えてきたけれど、冷静になってみれば、ハラスメントをしている権力者以外に困る人なんているはずなかった。「みんな」なんて幻想だったのだ。

 太宰治は『人間失格』の中で、女性関係を注意されるシーンで「世間とは個人じゃないか」という思想に至っている。

「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」
 世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、
「世間というのは、君じゃないか」
 という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。
(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)
 汝は、汝個人のおそろしさ、怪奇、悪辣、古狸性、妖婆性を知れ! などと、さまざまの言葉が胸中に去来したのですが、自分は、ただ顔の汗をハンケチで拭いて、
「冷汗、冷汗」
 と言って笑っただけでした。
 けれども、その時以来、自分は、(世間とは個人じゃないか)という、思想めいたものを持つようになったのです。

太宰治『人間失格』

 世間が許さない。社会が許さない。みんなが許さない。神が許さない。言い方はいろいろあるけれど、いずれにせよ、許していないのはその発言をしている「あなた」という個人でしかないのである。権力で他人を支配しようとしている「あなた」という個人にすぎない。むしろ、世間は、社会は、みんなは、神は、「あなた」を許さないだろう。

 そのことを知っているから拳銃を奪われた父親は怯え、妻と娘たちから攻撃されないように先回りして攻撃を仕掛ける。まだなにもやられていないのに、お前たちは信用できないと言って、徹底的に人格を否定していく。

 妻は子どももたちを守るため、夫に頭を下げようとする。でも、娘たちは抵抗する。そうやって、面倒くさいからって頭を下げてきたせいで、この家はいつまでたってもパパの言いなりだったんだよ。おかしいことはおかしいと言わなくちゃ。

 もしかしたら、彼女たちにとっての拳銃はスマートフォンなのかもしれない。

 途中、お父さんが食料品で買い物をしているとき、知らない客に写真を撮られたと言って、あいつらを特定してやると興奮するシーンがあった。日本だったら、自意識が過剰になり、そういう被害妄想に陥っているという展開になりがちだけど、本作はそうではなかった。実際にしっかりと写真を撮られ、復讐が目的だったのだ。このあたり、イランのリアリティが垣間見える。

 モハマド・ラスロフは有罪判決を受けた前作『悪は存在せず』でも、死刑制度を巡る理不尽に真正面から向き合っていた。検閲を逃れるため、一見するとなんてこと短編映画を4本撮影し、外国でそれらを長編映画としてまとめあげると伝えたかったメッセージが現れてくるという暗号みたいな撮り方をしていた。

 当然、反体制派であることは周知の事実なので、彼の作品に出演する役者も大変だ。特にイラン映画では不特定多数が見るという理由で女優は自宅のシーンでもヒジャブを被ることが一般的。それが現実の習慣と異なっていたとしても批判されるリスクはなかなかとれない。

 その点、『聖なるイチジクの種』はヒジャブ着用に端を発するか抗議デモが重要なテーマとなっているので、女優がヒジャブを脱ぐこと自体に意味がある。出演を決めるにあたっては相当な勇気が必要だったと想像される。なお、やはり当局はこの映画を問題し、監督もキャストも国外渡航を禁止されている。

 文字通り、命懸けの映画なのである。これを日本で見ることができる奇跡に圧倒された。




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