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【映画感想文】「期待はずれでクソつまらない」と腹を立てる我々もまたジョーカーであると伝えるため、巨額の予算を費やした世紀の大駄作! 素晴らしい! - 『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』監督: トッド・フィリップス

 待望の『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』が公開された。

 ホアキン・フェニックスが前作で演じた悲壮感たっぷりのジョーカーは衝撃だった。なにを考えているのかわからない危ないやつという既存イメージを保ちつつ、ピエロのメイクに描かれている笑いと涙の共存を実現させていた。

 このジョーカーはわたしたちの気持ちをわかってくれる。このジョーカーはこのクソみたいな世界をひっくり返してくれる。もっとやれ、ジョーカー!

 作中のみならず、その熱狂はリアルな世界にも広がった。日本でも2021年10月31日のハロウィーンにはジョーカーの扮装をした男が京王線で刺傷事件を起こすなど、現実の犯罪にも影響を与えていた。

 そんな異様な映画の続編は楽しみでもあり、怖くもあった。社会的に不遇な人々の代弁者となったジョーカーが次になにをするのか。暴れるだけ暴れるのだろう。そういうアナーキーな行動は大衆に支持され、正義のヒーローの居場所はなくなる。めくるめくディストピアの蔓延。見たくないけど、見てみたい。

 ところが、先に上映されているアメリカでは賛否両論だったというから、あれ? と思った。もしかして、ヒット作の続編はつまらないという定番の流れに入り込んでしまったのだろうか。たしかに、それはあり得る話だけど、あのジョーカーがそんな普通な結末を迎えるなんて……。ちょっとばかり寂しかった。

 だから、見に行くかどうか迷った。好きなものがつまらなくなっていく姿はつらいものがある。ただ、一度湧き上がってしまった興味を消すことは難しく、かつ、配信されたらどうせ見るに決まっているわけで、だったら、いま見たって変わりはないじゃないか。一人、悶々と思考した。

 で、結局、公開日に劇場の最前列に座っていた。

 それからスクリーンを二時間十八分眺め続けている間、賛否両論な理由をじっくりと噛み締めた。なんというか、徹底的に退屈! 何度も眠くなってしまった。

 具体的に言うなら、ジョーカーが全然ジョーカーじゃないのだ。わたしたちが求めているジョーカーはもっとクレイジーで、自分勝手で、目の前の人間をいつ殺してもおかしくない危うさを持ち合わせているはず。なのに、ホアキン・フェニックスはそんな感じではまったくない。痩せた小汚い貧乏白人って雰囲気で、本当にあのヤバい事件を起こしたやつなの? と訝しくなるほど小物なのだ。加えて、好きな音楽も古臭いし、ユーモアのセンスも古臭いし、新しい時代を切り拓いたジョーカーの言動とは思えない。ぶっちゃけ、ガッカリもガッカリなのだ。

「クソつまらない!」

「期待はずれ!」

「金返せ!」

 そうな風に観客が腹を立てるのも納得。こんなものを見たかったんじゃない。ジョーカーっていうのはこうあるべきなんだよ。理想のジョーカー像と比較して、この映画のジョーカーがいかに間違っているのか批判に批判を重ね、正しいジョーカー2のあり方をネットで書き連ねてみたくなる。そう。いま、わたしがこの記事でやっているように。

 さて、面白いのはここから。

 観客がそういう反応になることをトッド・フィリップス監督はすべて織り込み済みで、なんなら、そういう反応によってはじめて『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』が完成するように計算し尽くしている。そして、そのことに気がついたとき、退屈さに意味が出てくる。

 どういうことか。

 実はジョーカーの振る舞いにがっかりしているのは観客だけではなく、スクリーンの向こう側にいる登場人物たちも一緒なのだ。ジョーカーが起こした凄惨な事件に心を打たれ、すっかりジョーカー信者となった映画内の人々もまたホアキン・フェニックスがなんてことない中年男性だったとわかるにつれ、心底、残念がっていた。

 彼らもまたジョーカーに対してアンチな感情を溜めていく。本物のジョーカーに対して、ジョーカーたるものこうあるべきと言ってやりたい気持ちを抑えられなくなっていく。そうしてたどり着いた結末は……。

 ああ。そうか。こうやってネットでジョーカーに怒りを爆発させているわたしたちもまた、ジョーカーなのかと思い知らされる。

 つまり、この退屈さはあえての退屈であり、第一作があれだけ評価され、あれだけヒットしたからこそ、こういう続編を作ることでジョーカーの隠れた一面を浮き彫りにできると判断したトッド・フィリップス監督はヤバい。ジョーカーに対する解像度が高過ぎるし、巨額の予算がかかっているプレッシャー大の仕事でこんな実験的な試みをしてしまうなんて。

 いい意味で頭がおかしいw

 さらにまんまと『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』がSNSでつまらないと批判され、『ダークナイト』でヒース・レジャーが演じたジョーカーこそ本物であると熱く語られている現状を見るにつけ、こういうことってあるよなぁとしみじみ恐ろしくなってしまう。

 実際、とんでもない事件を起こした犯人はカリスマ扱いされ、ファンが増えていくものだ。

 やまゆり園障害者殺傷事件の植松聖もしかり。安倍元首相銃撃事件の山上徹也もしかり。首都圏連続不審死事件の木嶋佳苗もしかり。殺人ではないけれど、頂き女子りりちゃんとして詐欺事件を起こした渡辺真衣もしかり。逮捕され、刑が確定した後も、彼ら・彼女らを擁護するだけでなく、支持を表明する人たちは多数存在する。

 表向き、神聖化される構造が生まれるきっかけは犯人の側にあると考えられている。その生い立ちだったり、使う言葉だったり、共感を呼ぶものを持っているから、と。

 しかし、本当にそうなのだろうか? 

 別に対象なんて誰でもよくて、自分の責任が及ばない範囲で暴力的な言動をしたい人たちにとって、そういう犯罪者に共感するという設定が都合いいというだけで、カリスマをでっち上げているように思われる。

 例えば、障害者にヘイトを持っている人がいたとして、そのことを自分の意見として口にするのははばかられるから、

「植松の言っていることにも一理はあるよなぁ」

 と、あくまで自分とは関係ない植松の意見という形で、自らの差別意識を発散しているのだ。仮にそのことを迫られたとしても、

「俺じゃないよ。植松が言ってたんだよ」

 と、逃げることができるから。

 このことを象徴しているのがSNSで多用されている「引用」という仕組み。カリスマの過剰な発言を引用してきて、自分の感想をそこにちょっと添えるという形の発信が力を持っている。また、それをリポストするだけで、己の手を汚すことなく、気に食わないやつを貶める快感を味わえる。

 わたしたちは犯人がどんな人間なのか、その等身大の姿に少しも関心なんて持っていない。誰かを攻撃するときの引用元として便利だから、犯罪者をカリスマ化しているだけなのだ。

 皮肉なことに、それって、カリスマ化した犯罪者に罪を背負ってもらっているような話であり、意図せず、わたしたちは常に新たなキリストを生み出しては殺し続けている。さながら工業化された贖罪である。

 そんな仕組みを作り出し、自分は悪いことをしていないと信じ、ヘイトをばら撒くわたしたちをジョーカーはヒッヒッヒッと嘲笑っている。『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』はそういう映画だった。

 世紀の大駄作だけど、最高に素晴らしかった。




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