【読書コラム】あんだけ一緒にいたかったのに、いざ、くっつくと苦しくて、だけど離れることもできなくて - 『いなくなくならなくならないで』向坂くじら(著)
毎月恒例、大学時代の友だちとやっているzoom読書会があった。今回の課題本は芥川賞候補になっていた向坂くじらさんの『いなくなくならなくならないで』だった。
最初、最近の若者らしいエモい感じの小説なのかと思った。
就職内定式を終えたばかりの主人公の携帯に着信がある。出ると、高校生の頃に死んだはずの親友から。幽霊なのか? 疑いながらも再会すると、泊まる場所にも困っていると相談されて、なし崩し的に同居生活が始まる。
止まっていた時間が動き出すように二人は青春を取り戻していく。一緒にご飯を作って、同じ漫画を読んで、たまに銭湯へ行ってみたりする。さわやかな雰囲気が吹き抜ける。
ところが、だんだん、雲行きが怪しくなってくる。
大学を卒業し、主人公が職場に近い実家へ帰ると言っても親友は出て行こうとしない。気を遣って、実家に来るかと尋ねたら二つ返事。社交的な両親も当たり前のように親友を受け入れ、新しい共同生活が始まってしまう。
新人として労働に従事し、心身ともに疲れて帰宅してみれば、母親と親友がやたら仲良くなっている。二人でお菓子や夕食を作ったり、一緒にプールへ行ったり、実の娘である自分よりも馴染んでいる。お父さんからも可愛がられ、気づけば、主人公が大学時代に所属していたサークルの後輩とも仲良くなっている。
死んだはずの親友が戻ってきて、幸せなはずだった。不可能と諦めていた再会が果たせたんだもの。なのに、自分の居場所がじりじりと奪われていく。そんな現実を前にして、次第に、憎しみに近い感情が湧いてくる。
まさかの安部公房的展開!
ある日、突然、友達を名乗る見知らぬファミリーが家にやってきて、そのまま居座ってしまう傑作『友達』の不条理さを彷彿とさせる。
さらには日記と現実が入り混じり、嘘と本当が交差して、エロティシズムとヴァイオレンスが一体化。まるで黒沢清監督の映画を見ているような静謐な怖さが漂い出して、なんか、凄いものを読んでいるぞって感覚に襲われた。
だけど、中心となるテーマはあくまで普遍的。一緒にいたいと心の底から望んでいても、いざ、くっついてみると苦しいこともけっこうあって、でも、離れることはできないという共依存関係の悩ましさ。
あー、わかる。わかり過ぎるぞ。
特に、相手が可哀想な境遇にあるとき、どうしようもなくなってしまう。
そう。可哀想って最強だ。
つらい幼少期を過ごし、学校も仕事もうまくいなくて、いつ自ら死を選んでもおかしくない境遇の親友は可哀想な人。働かなくても、気が利かなくても、ここにいて笑っているだけで十分に立派なのだ。
対して、普通に高校を卒業し、普通に大学も卒業し、普通に就職し、普通に働いている主人公は可哀想な人ではない。仕事でストレスが溜まっても、家庭内で居場所がなくなりつつあっても、不満を口にしてはいけない。なぜなら可哀想な人と比べて、恵まれているんだもの。可哀想な人たちに寄り添ってあげる義務がある。
主人公は親友と暮らし続ける。それは正しいことだから。でも、我慢の限界を迎えると追い出さなくちゃと本気で思う。ただ、実行には移れない。
居場所のない主人公にとって、可哀想な親友を支えているときだけ、自分の存在意義を確認できる。その特権を捨てることは難しい。
これって、親子関係でも恋人関係でも、往々にして起こってしまうやつだよね……。わたしも思い当たる節がけっこうあって、読んでて、どうも落ち着かなかった笑
たぶん、世の中の大半は同様の問題に悩んだことはあるはず。そういう意味では広く共感される内容になっていた。
個人的にはそこに潔さを覚えた。というのも、最近の純文学はマイノリティにクローズアップし、この世界にはこういう視点もあると伝える物語が多くなっているからだ。
もちろん、その傾向が悪いわけではない。長年、小説はマジョリティの立場で書かれたものが主流で、マイノリティの声は黙殺されてきた。この封印を剥がし、書かれなければ失われていく歴史を救出することは急務であり、どんどんやっていかなくてはいけない。
しかし、意義を理解した上で、マジョリティな小説を楽しんできた読者としては、なんだかんだ、マジョリティな小説を読みたいという欲求を隠し切れない。『いなくなくならなくならないで』はそんなニーズに応えてくれた。
いい意味で大枠がよくある話だった。なので、自分を重ねつつ、次から次へとページがめくれた。そのまま、ゆっくり、着実にフィクションレベルが上がっていくので、最後の狂気に振り落とされることはない。
真っ直ぐに面白かった。現代の純文学作品の読後感として、この味わいは久々な気がする。
なにせ、学びだったり、気づきだったり、問題意識の自覚だったり、認識のアップデートが伴う読後感がほとんどだから。これはこれで好きだけど、正直、ちょっと疲れてしまう。
対して、『いなくなくならなくならないで』はキャラクターや設定が現代なだけで、それぞれを変更すれば、夏目漱石が書いても、シェークスピアが書いても、遠い未来、火星人が書いても通用するユニバーサルな主題を扱っていた。作者の向坂くじらさんはこれが初めての小説らしく、いきなりそういう大きなものにぶつかっていける潔さがひたすらカッコいい。
もちろん、現代小説は現代にしか書けないものを書くべきという意見があるのも承知している。でも、それは現代にしか書けないものを書こうという動機ではなく、できあがったものが現代にしか書けないものだったという結果として現れるのではなかろうか?
ならば、『いなくなくならなくならないで』は紛うことなき現代文学であると言える。だって、現代に生きるわたしが読んで、ここまでヒリヒリできるんだもの!
誰かと一緒にいるって、そう単純な話ではない。好きとか嫌いとか、もはや、どうでもよいのかも。例えば、友情や恋愛に賃貸物件のような二年ごとの更新があったとしたら、案外、気分でサヨナラしていてもおかしくはない。
安心感はあるけど、腹が立つ部分もあるし、積み重ねてきた時間は尊いとはいえ、そのせいで経験できなかったこともたくさんある。あなたのいない人生は考えられない。でも、あなたのいない人生に憧れないわけではない。
まさに、いなくなくならなくならないで。自分で言ってて、どっちなのか感情が迷子になってしまう。
この小説でも死んだはずの親友が死んだままであったら、悲しみはあれど、きっと安定していたのだろう。そういうものとして惰性で受け流していけるから。ところが、突然、親友が生き返り、二人の関係性を再確認しなきゃいけなくなったから、アンビバレントな思いが込み上げてきてしまう。
お笑いトリオ・東京03のコントに似たようなものがある。『セカンドプロポーズ』という作品で、結婚して25年目の夫婦が改めてプロポーズを行い、若い頃にお金がなくて挙げられなかった結婚式を挙げ直そうというもの。そこまで言って予測がつく通り、妻はこのセカンドプロポーズを秒で断る 笑
なぜ、妻は夫にセカンドプロポーズを断ったのか、説明するところに面白さがある。もともと夫に不満はあったけど、そういうものとして自分を納得させてきた。ただ、改めてセカンドプロポーズされると「嫌だな」と思ってしまった、と。
もし、セカンドプロポーズがなければ、妻は夫をそういうものとして愛していけたのだ。
結婚25年目で銀婚式を祝われ、50年目で金婚式を祝われ、まわりからいつまでも仲がいいねと茶化されたりする。平均寿命から考えて、夫が先に死ぬはずで、四十九日も過ぎた頃、ようやく妻はほっと一息つけるのかもしれない。そして、いろいろしんどくはあったけど、この人と結婚してよかったのかも、なんてしみじみ考えてしまうかも。
セカンドプロポーズさえなければ。
人間関係なんて、基本、ベストじゃない。自分じゃどうにもならない偶然の出会いから、別れるきっかけのないまま、惰性でたどり着いた先が現在なのである。その是非を問われたら、タイミングによって答えは変わってしまう。冷静になると、なぜ一緒にいるのか意味がわからなくなってくる。
当たり前な毎日は少しも当たり前なんかではないのだ。当たり前を継続させるため、全員が問題と向き合わないようにしているわけで、かなりハイカロリーな共同作業。
でも、それができるってことは仲がいい気もするし、問題があるってことはそうじゃない気もするし、誰かと一緒に生きていくって、相当、不合理な現象。なのに、人間は一人じゃ生きていけないんだもんね。
結局のところ、これでいいのだ! なのかもしれない。
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