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【ショートショート】いつもの (6,088文字)
この二年、毎週通っているラーメン屋で初めて、
「いつものでいいですか?」
と、聞かれた。嬉しくなって、
「はい。いつもので」
と、食い気味に答えた。でも、出てきたラーメンは俺の知っている「いつもの」とは全然違った。
もう少し詳しく話そう。
そのラーメン屋はカウンター越しに食券を渡すと、鉢巻を巻いたマッチョな男性店員さんから、
「お好みは?」
と、爽やかに尋ねられるというルールがあった。麺の茹で加減・味の濃淡・油の量の三点について選ぶことができて、俺はいつも、「麺やわらかめ、味薄め、油も少なめでお願いします」と呪文のように好みを唱えていた。スープは豚骨醤油のみ。真っ赤な看板に白く縁どられた筆文字が印象的。いわゆる横濱家系ラーメンのお店だった。本家本元の孫弟子に当たるらしく、行列が絶えなかった。
もともと「麺固め、他は普通で」が俺の趣味だった。だけど、二年前の健康診断で糖尿病の気があると指摘され、医者から、
「その上、血圧も高過ぎます。このままじゃマズいですよ」
と、怒られてからというもの、すっかり価値観が変わってしまった。
「ラーメンとか好きですか?」
「ええ、人並みに」
「具体的にはどれぐらいの頻度で?」
「週に二回。いや、三回ですかね。いろいろなお店を食べ歩くのが好きなもので」
「スープは飲みますか?」
「ええ、人並みに」
「具体的にはどれくらい?」
「半分」
「……本当に?」
「ぜんぶです」
「ダメですね。それは」
言われなくてもわかっていたが、いざ注意されるとけっこうへこんだ。
「とりあえず、食べる量を減らすことからチャレンジしましょう。スープは必ず残すこと。あと、できれば週一回に減らしてください。さもやくば、早死にしますよ」
ラーメンは好きだったけれど、早死にはしたくなかったので、俺は軟弱なラーメンを軟弱に食べる軟弱な人間に生まれ変わった。以来、ラーメンを食べるときは味を自由に決められる店へ行くことに決め、二年、この店に通ってきたのだ。
だから、その日もいつものように食券渡し、例の呪文を唱えるつもりだった。ところが、不意に、
「いつものでいいですか?」
と、いつものマッチョな店員に聞かれてしまったので、思わずビックリ。
「はい。いつもので」
気づけば、そう応じていた。
まもなく、ライスが出てきた。この店の特徴だった。ランチの時間は白米が無料サービス。何杯でもおかわりできた。というのも、家系ラーメンとご飯の相性は最高最強。湯気立つ茶碗に卓上の調味料を豆板醤、おろしニンニク、すりゴマ、ブラックペッパーの順に加えて、ぐちゃぐちゃにかきまぜる。そこにラーメンのスープを流し込むのが俺の定番。それを海苔で巻いて食べるまで、もはやルーティーンと化していた。もし、このことが医者にバレたら、怒られてしまうだろう。でも、いまのところ、ライスをつけるなとは言われていない。禁止がなければ、やめる理由はないと自らを納得させて、その日も食前の準備をパパッと終えた。
ホッと一息ついたとき、「いつもの」と言ってもらえたことを思い出し、つい、顔がニヤニヤするのを止められなかった。別に、そうなりたいと目指していたわけではない。わけではないけど、誰かに自分の存在を認識してもらえた事実は喜ばしかった。そのため、
「お待たせしましたー」
と、丼が目の前にやってきた瞬間、パチパチ、我が目を疑った。なにせ、そこには俺の知っている「いつもの」と全然違うものが置かれていたから。
見た目に麺はゴワゴワ固く、背脂が大量に浮かび、スープの色も黒ずむぐらい醤油が強かった。店員を呼び、苦情を入れるかけっこう悩んだが、顔を上げると例のムキムキな彼と視線がぶつかり、満足そうににっこり笑いかけられたので、この人に間違った意識は一ミリもないのだろうと確信された。おでこに巻いた真っ白なタオル、真っ白な前歯、真っ白なタンクトップがキラキラ輝き、まぶしかった。
不平不満をグッと飲み込み、現実から逃げ出すように麺をすすった。案の定、粉っぽかった。ギトギトだった。しょっぱくって仕方なかった。
正直、心は折れそうだった。週に一度のご褒美として食べる不摂生な食事であっても、これはあまりにもギルティが過ぎていていた。リアルタイムでお腹に脂肪が蓄積し、塩のトゲトゲした結晶が血管内で悪さをしているイメージが頭に浮かんだ。げんなり、しんどくなってきた。
やっぱり作り直してもらおう。注文したものと異なるものが出てきたわけだし、要求できないことはないはずだった。ただ、再び、マッチョな彼とアイコンタクトを交わしてみれば、ニコッと笑われ、こちらの戦意はあっさり喪失。むしろ、落ち度はこちら側にありそうだった。
単なる勘違いかもしれない。あるいは忘れているだけか。朝十時半のオープン前から行列ができるほどの繁盛店。忙しさは尋常でない。故に、そういうシンプルなミスが生じる余地はいくらでもある。
一方、カウンターの向こう側、働き手が的確に配置された完璧なオペレーションを見るに、そんな簡単な推察ですべてを片付けるのは早計な気もした。寸胴をでっかいヘラでかき混ぜている大学生ぐらいの男の子。麺を茹でる職人気質な中年男性。注文および盛り付けと配膳を担当するマッチョな彼。二年間、この三人によるパーフェクトな連携を眺め続ける者として、その凄さは誰よりも理解していた。おまけに、そろいもそろってボディビルダーみたいにガタイがいい。信頼せずにはいられなかった。
してみれば、これはやっぱり「いつもの」なのではないかと思われてきた。ただし、俺のではなく、俺によく似た知らない誰かの。偽物の「いつもの」だ。
もう少し詳しく話そう。
自分が他の誰かと混同される。これはかなり嫌なことではあった。しかも、二年間定期的に通い続けたお店で。なんなら、ようやく顔を覚えてもらったとホクホクした後、一度持ち上げられて叩き落とされるなんて、えらく残酷な仕打ちだった。
とはいえ、もし、本当にそうだったなら、誰が悪いという話ではないし、せっかく提供してくれた食べ物を無駄にするのは申し訳がないし、とにかく、いまは食べるべきものを食べる以外に方策はなかった。
箸を進めた。シンプルに苦しかった。お腹がいっぱいとか、そういうことではなくて、血中塩分濃度の高まりで喉がしょっぱいものを拒否していた。手首のあたりがドクンドクンしていた。冷水で誤魔化しながら頑張った。もちろん、うまいはうまかった。あくまで、問題はこちら側。たぶん、長年の健康生活でラーメン耐性が弱々に劣化し、久々の強めな味覚にドタマかち割られたようになっているのだ。
そのため、どんぶりを両手で捧げ、唇を縁まで持っていき、直角に傾けながら最後の一滴を飲み干したときの感動は格別だった。超気持ちーってやつだった。こんな風に完食するのは例の医者の手厳しいアドバイスを受けて以来、初めてのことだった。指先が震えるほど興奮した。
さて、その代償と言うべきか。食後は五臓六腑にダンベルが植え付けられてしまったみたいに胃袋が重かった。このままじゃどうしようもない。床にボルトで固定された丸椅子に座っているのは辛かった。とにかく歩こう。いいから歩こう。
席を立った瞬間、
「いつもありがとうございます」
と、マッチョな彼の感謝を真っ直ぐ浴びた。それもまた俺にとっては初めての「いつも」だった。
帰り道、無性に悲しくなってきた。なにせ、俺の知らない俺に似ている偽物は、きっと、店員ときさくな会話ができるような人物なのだろう。そうでなかったら、あんな風に「いつも」を連発されないはずだ。恐らく、見た目は同じデブなはず。なのに、どうして中身が真逆になるのか。不思議で奇妙で仕方なかった。
世の中には二種類のデブがいる。
ひとつ目はジャンクデブ。カロリーさえ取れれば内容はなんだっていい。野蛮でずさんな雑然タイプ。安く、腹持ちのいいものをひたすら好み、料理をコスパで考えがち。それこそ、ラーメン屋でカスタマイズが可能であれば、硬め・濃いめ、油多めの早死に三段活用を必ず頼む。そして、無料の調味料を入れられるだけ入れまくる。ニンニクも生姜も黒コショウも七味も紅ショウガも。スープの粘度が変化するほどぶち込んでしまう。むかしの俺みたいなやつらのことだ。
対して、太ってはいるけれど、量より質を重視するデブをグルメデブと呼ぶ。両者の目指す方向は全然違う。まず、なにより食事を本能の行為ではなく、娯楽として解釈している。身体を動かすために飯を食うのではない。美味しい飯を食った結果、副次的にカロリーを摂取してしまうだけなのだ。だから、太ってしまうのは常に不本意。よくないことだと認識している。
この二年、俺はジャンクデブからグルデブに生まれ変わろうと頑張ってきた。もちろん、健康問題がその要因として大きな割合を占めていた。ただ、他にもきっかけがないこともなかった。
実はジャンクデブを長いことやってきた弊害で、めっきり誰からも食事に誘われなくなってしまい、そのことにけっこう悩んでいたのだ。たぶん、飲み会で無自覚に唐揚げやポテトを食べ尽くしていたため、嫌われてしまったんだと思う。社内ではすっかり孤立し、誰も話しかけてくれないし、事務連絡をしても交わせる言葉は必要最低限度だけ。次第にコミュニケーションの方法がわからなくなっていった。ストレスがどんどん溜まった。でも、それを発散するため、遊ぶ相手は皆無だった。結果、もっぱらひとり酒。立ち飲みが多かった。つまみはもつ煮、梅水晶。肉々しいものが中心で、〆は必ずラーメンか牛丼。慢性的に胃腸は疲弊しまくっていた。
仕事終わり、毎日、腹を満たして帰宅した。休肝日などあるはずがない。いつだって酔っ払いながら眠りについた。
自傷行為だったのかもしれない。身体が「助けてくれ」と叫びまくっていたのかもしれない。
もし、健康診断で医者による怒られが生じなれければ、いまも変わらず、俺はジャンクデブを猪突猛進。お腹は風船みたくパンパンに膨らんでいただろう。あの頃、現実逃避で体重計には乗っていなかったけれど、ズボンの股が擦り切れたのでヤバいと認識はしていた。ベルトを締めなくてもずり落ちてこなくなったし、立ったまま靴下を履けなくもなったし、無視するには大きな変化が生活のあちこちに顔を覗かせてきた。
次第に、まわりの目も気になり始め、同僚たちの悪口が聞こえた。食堂でセルフ式のご飯を山盛りにしている俺を遠目に、クスクス、笑い合う声に苛まれた。
四方八方敵だらけ。四面楚歌かつ疑心が暗鬼。朝、誰かに、「おはようございます」と声をかけられても、返事ができなくなってしまった。定時に、「おつかれさまです」と挨拶されてもシカトしていた。ますます孤独は深まるばかりだった。
あれから二年。
BMIだけ見たら肥満の範囲に属してはいるけど、毎晩、風呂上りに体重計に乗れるようにはなった。全盛期の百キロオーバーから八十キロ前後までダイエットは成功。以来、この水準をキープしていた。
自分としてはかなり劇的な変化であった。なのに、他人と間違えられるなんて。これまでの努力はいったいなんだったのか。しかも、偽物はたぶんジャンクデブ。俺の自尊心は浴槽に入れたバブみたく、シュワシュワ、派手に溶けていった。
もちろん、なにもかも仮説に過ぎなかった。だけど、えらく信憑性があるように感じられた。
居ても立っても居られなかった。その真偽を確かめるため、偽物の俺にぜひとも会ってみたかった。少なくとも、遠くから、どんな外見をしているのかだけはチェックしたいと本気で思った。
きっと、そいつはいつも、このぐらいの時間にこの店に来ているはずだ。でなければ、店員は俺をそいつだと間違えたりはしないはず。
そこで、とりあえず、通りを渡って、向かいのファミマから様子を窺うことにした。
窓の外を警戒しつつ、アイスコーヒーを買った。さっき食べた「いつもの」は相当に塩辛かったので、喉が渇いてしまった。イートインの席に座って、ストローでちゅるちゅる、ほどよい酸味を味わった。退屈だったが、スマホをいじるわけにはいかなかった。なにせ、ターゲットはいつ現れるかわからない。
やがて、一人の男がラーメン屋の列に並んだ。その姿は俺の目を捉えて離さなかった。驚いたことに、そいつは俺が現在着用しているユニクロのスヌーピーコラボTシャツを着ていた。しかも、黒字に赤い屋根が描かれ、その上でスヌーピーと黄色い鳥ことウッドストックが昼寝しているカワイイやつ。個人的にもっともお気に入りな一枚だった。
だが、顔だけは全然違った。俺と違って、可哀想なほどにブサイクだった。
まさか、こいつと間違えられたのか?
うーん、とてもじゃないけど信じられない。しかし、着ているTシャツは一緒だし、髪型も似ているし、同じような形のメガネもかけているし、忙しい店員が見間違えたとしても不思議ではなかった。
複雑な思いが胸に去来した。文句を言ってやりたかった。でも、誰に? 店員は悪くないし、偽物だって悪くない。仮に俺から怒られたとして、なんのこっちゃわからないだろう。
やがて、悶々としながら、一つの結論に達した。偽物はこちらなのかもしれない。
俺はプラスチック容器を氷が入ったまんまゴミ箱にぶち込んで、コンビニを後にした。
家に帰る道中、目に映る風景がすべて場違いに感じられた。こんなところにこんな建物があっただろうか? あのガードレールは緑色じゃなかったっけ? すれ違う女子高生の制服が近所の学校のものではなかった。あんなデザインの電気自動車をTOYOTAが出すわけないじゃないか!
息が乱れてきた。目眩にも襲われた。命からがら自宅のドアまでたどり着いた。ポケットから鍵を取り出して、震える手で穴に差し込んだ。いつもなら軽く回るはずだった。しかし、なぜか、うんともすんとも言わなかった。
もう少し詳しく話そう。
つまり、俺はお前なんだよ。別の世界のお前なんだ。でも、お前とは違って、ラーメンを我慢し、健康な肉体を手に入れた。だから見た目は全然違う。
ん? なにが言いたいかって?
いま、お前は死にかけているだろ。肝臓と腎臓がダメになっちまった。健康診断で何度も引っかかっていたにもかかわらず、ちゃんと病院に行かなかった報いを受けている。まあ、気持ちもわかる。俺はお前だからな。同情はしているよ。
つきましては相談なんだけど、お前の人生、俺に譲ってはくれないか? 生きている世界が異なっているとはいえ、俺はお前なんだし、お前はどうせもうすぐ死ぬんだし、かまわないだろ?
ええい。うるさい。選択肢なんてねえんだよ。抵抗したって無駄だぞ。お前は死にかけているんだからな。怖くもなんともねえ。
ふふっ。
恨むんなら自分を恨みな。あんな身体に悪い「いつもの」をいつも食べていた愚かな自分をな。
(了)
マシュマロやっています。
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