【映画感想文】わたしを一番束縛しているのはこの身体なのかもしれない - 『哀れなるものたち』監督: ヨルゴス・ランティモス
雪が降る中、新宿歌舞伎町のTOHOシネマズで『哀れなるものたち』を見てきた。もともと気になってはいたのだけれど、先日、Ebiさんの記事を読み、「今年度のマイベスト映画はもはや決定したかもしれないとまで思う」と書いてあったので、これは劇場で見るしかないと決めたのだ。
奇怪な映像に、不穏な音楽に、無軌道な動きが折り重なったヘンテコな映画だった。でも、自由とはなにか、大切なことが一貫して描かれ続けていた。
エマ・ストーン演じる美しい女・ベラ。そのエレガントで知的なビジュアルに反し、彼女は絶えず子どものように振る舞っている。それもそのはず、中身は本当に子どもなのだ。
かつて、自殺した彼女はフランケンシュタインみたいなマッドサイエンティストに拾われて、子どもの脳を移植されている。見た目は大人、頭脳は子ども、いわば逆・名探偵コナン状態!
そんな彼女が安全を理由な束縛された家を飛び出し、ヨーロッパを中心にぐるっと冒険、成長して帰還するまでの壮大なオデュッセイアが展開される。
子どもの脳みそを持つ大人の女性だなんて、なにを食べて暮らしていたら思いつくのか。怖くなってしまうけれど、この設定が悔しくなるほど興味深い。
というのも、普段、わたしたちは意識しないけれど、思考と身体がリンクしない苦しさがあまりにも痛々しく可視化されるから。
例えば、歩くことひとつとっても凄く大変。前に進もうとするたび、バランスが崩れてしまうらしく、エマ・ストーンは絶えず踊っているようだった。
そこに現代音楽っぽいBGMが流れれば、画面はさながら土方巽の暗黒舞踏。土着的な情念が醜くも立ち現れていた。
むかし、首くくり栲象さんに暗黒舞踏の基本を教わったことがある。なんでも、0グラムの重さを感じることが大切なんだとか。
頭で考えたとき、0グラムは重さが存在したいことを意味する。しかし、この空間に0グラムの重さはたしかに存在しているわけで、それを感知できるのは肉体なのだ、と。
頭では捉えられない現実を肉体で捉えようとしているうちに、自然、踊りを踊ってしまう。そして、それが結果的に暗黒舞踏になると言っていた。
いや、正確には「0グラムの重さを感じることが大切」としか、首くくり栲象さんは言っていなかったけれど、わたしはそのように解釈した。
考えるとき、「頭を使う」と表現するため、わたしたちは思考を頭のものだと当たり前のように信じている。実際、この発想の歴史は古く、心身二元論の問題としてプラトンまで遡れる。それがルネ・デカルトの「我思う、ゆえに我あり」によって、思考を身体から切り離したのは十七世紀のことである。
ただ、その後、メルロ=ポンティが身体は「対象」と「わたし自身」の両義性を持ち得ると示したことで、風向きは大きく変わってきている。いまでは身体もまた思考すると考える人は多くいる。
身体は使うことによって考える。どこかへ行ったり、誰かと触れ合ったり、ボロボロに傷ついたり。頭で考える場合はそんな経験を必要としないため、なんだか効率が悪いように感じられる。かつ、扱える範囲が経験可能な領域に限られてしまう。
でも、個人の人生において、重要なのは普遍性ではない。わたしがわたしとしてどう生きるかなのだから、この身体でやれるだけのことをやりたいではないか!
エマ・ストーン演じるベラはそのため、身体で性の喜びを味わい、アルコールと飽食に心を満たし、素敵なリズムにステップを踏む。本来、それは身体が望むままに振る舞っているだけなのだけど、周囲の大人たちからは眉を顰められてしまう。
なぜなのか。彼女が大人の身体をしているからだ。大人の女性であるにもかかわらず、子どもみたいにはしゃいでいるのが奇異に映ってしまうのだ。
もし、その精神に相応の身体であったなら、子どもらしいという枠組みの中で許容されていたのかもしれない。あるいは心が大人であったなら、はしたない行動をとりたくないという意識が芽生えていたのかもしれない。
だが、それはそれで問題がある。いずれにしても、子どもなら子どもとして、大人なら大人として、守らなくてはいけない良識が社会にはあり、他者と関わる以上、その中でしか自由を謳歌できないわけで、本質的に不自由なのだ。
ここに人間の苦しみがある。あらゆる束縛を拒絶してもなお、わたしはわたしという身体から永遠に逃れられない。いや、身体のせいで束縛が生まれると言った方が適切か。
この葛藤とベラはどう折り合いをつけるのか。いかんとも形容し難いラストシーンは必見だった。
上映後、映画館を出ると歌舞伎町に雪が積もり始めていた。アスファルトはぬくるみ、普通に歩くことは難しかった。寒さで傘を持つ手はかじかんで、駅までの道のりがしんどかった。
たぶん、頭で考えたなら、こんな日に映画なんて見に行くべきじゃなかったのだろう。それはわたしもわかっていたし、実際、ギリギリまで躊躇はしていた。でも、身体がわたしを新宿のど真ん中へと連れてきた。
明らかに愚かな振る舞いだけど、人間には愚行権がある。ジョン・スチュアート・ミルが『自由権』の中で、客観的にしない方がいいと思われることであっても、当人にそれを行う意志があり、他の人たちの権利を侵害しないのであれば、強制的に止める正当な理由は存在しないと主張し、このことは愚行権と呼ばれている。例えば、飲酒や喫煙、売春、ギャンブル、自傷行為などがこれにあたる。
この愚行権という考え方がわたしは好きだ。なんなら、愚かな行いの中にしか、人生はありえないとさえ思っている。
振り返れば、過去はやんなきゃよかった出来事の積み重ねである。
あんなことに時間と金を使わなきゃよかった。
あんなやつを好きにならなきゃよかった。
あんな問題にこだわっていたのはなんだったのか。
思い出しだけでもげんなりとして、二度と繰り返したくない後悔で胸が苦しくなってしまうが、そのときはそうするしかなかったことに異論はない。なるほど、たしかにまわりからは反対されたし、最終的に「それ見たことか」と呆れられた。説得をされるとき、頭ではやらない方がいいと理解もしていた。ただ、身体が動き出すのを止めることはできなかった。
結果的に、やめた方がいいと悟ったからこそ、いまのわたしがあるわけだけど、良識ある他者にバカなことはするべきでないと教え諭されたとして、いまのわたしがあるとはとてもじゃないけど思えない。たぶん、知識として残るものにさほど違いはないのだろう。しかし、わたしの認識レベルではあまりに大きな違いがある。
コスパやタイパなど、費用対効果や時間対効果が求められる時代になってきている。映画を楽しむにしても、サブスクで観れる作品を倍速視聴するのがパフォーマンス的によいとされている。そんな中、警報級の大雪にあえぎつつ、二千円近く払って、スマホをいじれない環境で二時間半も過ごすなんて、たぶん、愚かにもほどがある。
ただ、わたしとしてはそこに違いがあると信じている。理屈はない。断じてひとつもありはしない。
やらない方がいいことをやってしまう点であまりに不自由。だけど、そう信じて愚かな行動ができることこそ、本当の意味で自由なのだ。
そんなことを考えていたら、JR新宿駅東口交番前で足を滑らし、わたしは盛大に転んでしまった。恥ずかしかった。
ああ、まったく!
生きるって、なんて哀れで素晴らしいのだろう!
マシュマロやっています。
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