【映画感想文】パパが女性になったからって、もう一人のママになるわけじゃないんだよね - 『パーフェクト・ノーマル・ファミリー』監督: マルー・ライマン
いつものようにAmazonプライムで次に見る映画を探していたら、気になる予告編が流れ出した。
ホームビデオっぽい赤ちゃんの映像。その子を抱えて自撮りをしている若いパパの姿。それから時が流れたのだろう。成長した姉妹とパパが犬を可愛がっている。とても平和な光景だ。でも、直後、食卓でピザを食べているとママが寝耳に水の発言をする。
そして、タイトルが映し出される。
『パーフェクト・ノーマル・ファミリー』
こんな凄い映画を知らなかったなんて、まず後悔に襲われた。でも、アマプラでいますぐ見れるじゃないかと思い出し、今度は喜びに包まれた。なんというか、我ながら節操がない。
直感通り、好きなタイプの映画だった。北欧の映画らしく、視聴するだけで心が浄化されていくような清々しさに満ち満ちていた。自然は光。自然な音。自然な演技。
デンマーク映画にはドグマ95という独特な制作方針がある。これは『ダンサー・イン・ザ・ダーク』で有名なラース・ファン・トリアー監督たちが1995年に打ち立てたもの。具体的には、「純潔の誓い」と呼ばれる十則が定められている。
このすべてを守るのは相当大変だけど、これによってデンマーク映画は一目見ただけでデンマーク映画だとわかる特異性を獲得した。
ちなみに、『パーフェクト・ノーマル・ファミリー』には回想シーンが含まれているし、BGMを使っているし、監督名をクレジットしているし、ドグマ95ではない。それでも、ドグマ95らしさを備えてはいる。
さて、ドグマ95らしさとはなんなのか。それは切実さである。まるでドキュメンタリーのようなリアリティがあり、フィクションであっても、わたしたちの日常の延長で起こり得るという臨場感がその醍醐味なのだ。
特に『パーフェクト・ノーマル・ファミリー』は監督のマルー・ライマンが実際に体験した出来事をもとにしているんだとか。おそらく、思春期の頃にはどうすることもできなかった大事件について、大人になり、見事、作品に昇華させたのだろう。もはや、その事実だけでめちゃくちゃ尊い。
年齢と立場の違いで、同じことでも、受け止め方が変わってしまう現実がこの映画の大きなテーマとなっていた。一応、ポリティカル・コレクトネスの観点から、家族がトランスジェンダーであることをカミングアウトしたときは理解を示すのが正しいとされている。
例えば、お姉ちゃんはパパが女性になりたいと言ったとき、自分らしく生きた方がいいよとエールを送る。一方、お母さんは夫が夫でなくなることを認められない。じゃあ、いままで嘘をついていたってこと? 愛していると言ったのはなんだったの? わたしの人生はどうでもいいわけ? 妻としての自分が否定されたように感じてしまう。
主人公である11歳のエマも複雑。サッカー少女な彼女は女らしいものより、男らしいものを好んできた。だから、パパとも趣味が合うと思ってきた。身近な男性はパパだけだから。なのに、パパはパパをやめたがっていて、女らしいものが本当は好きだったと言い出している。まるで親友に裏切られたような悲しさがある。
家族とはいえ、母と姉妹、三者三様の反応をする。この違いが絶妙であり、みんな、家族を愛していることに違いはなく、だけど、想いの伝え方が一律にならないせいで、全員が不可抗力で傷を負ってしまう。
誰が悪いわけじゃない。強いて言うなら、人間という複雑な存在を男と女の二種類に分類し、問題ないフリをしてきた歴史にあるのかもしれない。
改めて、ジェンダーって簡単な話じゃないと気づかされた。
性自認は女だけど、男らしいものにシンパシーを寄せる人は普通にいる。女が全員、ガールズトークに花を咲かせるわけではない。だから、トランス女性に女の子っぽい話題を振られたとして、ナチュラルに盛り上がらない場合もある。ただ、客観的に見て、それは意地悪をしているように写ってしまうような気もする。
エマはそんなモヤモヤを言語化できないまま、女性となったパパに対して抱き続ける。口に出したとして、きっとうまく言えなくて、意図せぬ形の攻撃になってしまうと幼心に悟っているのだ。
ただ、伝統的な家族を続けることはできないけれど、互いの気持ちを思い遣り、可能な限り一緒に生きていこうと歩み寄る態度って、本来の家族なんじゃなかろうか。ここで逆説的なタイトルが効いてくる。
なお、邦題は『パーフェクト・ノーマル・ファミリー』だけど、原題は"En helt almindelig familie"で、調べると微妙に意味が異なっている。デンマーク語でEnは不定冠詞、heltは「とても(副詞)」、almindeligは「普通の」、familieは「家族」を意味しているらしい。直訳すると、『(どこにでもいる)とても普通の家族』と言った感じか。
英語版のタイトルは原題のニュアンスを忠実に再現し、"A Perfectly Normal Family"となっていた。パッと見て、邦題と差があるとは思えないけど、不定冠詞が外され、副詞のperfectlyが形容詞のパーフェクトになっている点は文法的にかなり大きな変化である。
邦題だと、パーフェクトもノーマルもファミリーにかかっているっぽい。しかも冠詞がないので、映画で描かれる家族が特殊な存在であるかのような解釈も可能になる。
さて、これを誤訳と言ってしまえば簡単だけど、内容を踏まえて考えてみれば、むしろ、日本語のカタカナ表記だからこそ、タイトルに多重性を実現できていると肯定的にわたしは捉えたい。だって、この家族はありふれたものであってほしいと同時に、とても特別なんだもの。
少なくとも、日本では未だに、家族は夫婦が子どもを産み育てる関係性として認識されるケースは多い。要するに生殖機能が前提とされているのだ。
なにげなく、子どものいない夫婦に、
「子どもはまだか?」
と、聞いてしまうのはそういう意識の表れである。夫婦のどちらかが不妊症だった場合、
「すぐに別れて、他の相手を探した方がいいよ」
と、無神経なアドバイスができてしまうのも、きっと同じ理屈なのだろう。
なるほど、跡継ぎが必要だった時代ならば、経済合理性から結婚の目的は妊娠であり、そこに重きが置かれていたのかもしれない。ただ、現代の結婚観とはあまりにもかけ離れている。
いまや、誰かと一緒に暮らすことは生存戦略に成り果てた。収入を増やし、出費を減らす効果的な方法として、生活をシェアしているのだ。一人では処理しきれないストレスを分散するために、手と手を取り合っているのだ。
だから、子どもがいなくても、家族は家族なのである。もちろん、子どもがいたってかまわない。なんなら、結婚していなくたって、家族という概念は形成可能だし、離婚で終わるわけでもない。
不倫だったり、DVだったり、虐待だったり、性格の不一致だったり、一人の時間がほしくなったり、一緒にいてマイナスなことがあるのであれば、離婚という選択肢が浮上してくるのは当然である。だが、別れたとしても、養育費や相談、レクリエーションなど、生存戦略としての共闘ができるのであれば、家族は継続できるはずだ。
そういう意味で、パパが女性になり、両親は離婚したけれど、エマたちは家族であり続ける。それぞれが家族であることを望む限りにおいて。
わたしはそんな家族の姿に、完璧なノーマルファミリーという特殊性を感じ、また、どこにでもいる普通の家族という一般性も感じた。というか、世の中、そうであってほしいと思ってしまった。
ジェンダーはむかしの人が勝手に作った幻想のシガラミである。そんなものが理由で、現代のわたしたちが幸せになれないなんて、やっぱりおかしい。
どんな人だって、性やジェンダーには回収できない莫大な情報を備えている。わかりやすさに惑わされ、そのことを忘れちゃいけない。
生きるって、嫌になるほど複雑で、最高に面倒くさい出来事の連続だけど、たまにすべてのマイナスが帳消しになるほど楽しい瞬間が訪れて、つい、やめどきを失ってしまったギャンブルみたいなものなんだから。
しんどいを頑張ろう!
なんだかんだで前向きな気持ちになれる一本だった。
マシュマロやっています。
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