めぐりめぐって朝6時にオセロ
今朝目を覚ましたらまだ6時で、雨粒が屋根にあたるリズミカルな音色が心地よかった。
満足して6時半まで二度寝しようとしたら、普段はなにをしても7時まで起きない長男と目が合ってしまった。
早朝まだ子どもと目が合った瞬間はいつも、なんてごまかそうとかなんとか二度寝できないかとか、脳みそがフルスピードで回転する。いつもごまかせないしもちろん二度寝はできない。回転数の無駄遣いである。
諦めて身体を起こすと、部屋のすみっこでは平常運転の次男がおめめぱっちりでごろごろしていた。次男が「まだねんねちたい」というので、長男と二人で階下に降りた。
わたしがカーテンを開けたり電気をつけたりしていると、長男が「オセロしよう」という。先日学童の先生と対戦して勝ったのがうれしかったようでせがまれて、その様子がうれしくて、単純なわたしはその日のうちにAmazonでぽちった。
今日は打ち合わせの予定もなく朝食にはパンがあったので、腹をくくって長男とオセロをして、うまい具合に負けた。
長男は「(自分は)ただものじゃないからさ」とうれしそうにしていた。
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そういえば、わたしは子どものころ、自分はオセロがとても強いのだと思っていた。両親にも、祖父にも、叔父にも、3歳年下の弟にも、対戦するとたいてい勝ったからなのだが、弟以外は大人たちの優しさで、うまい具合に負けてくれていたのだとはじめて長男とオセロをした日に気づいた。わたしは手を抜かれていると気づくと激怒する子どもだったので、この「うまい具合に」が難しかっただろうと思う。
誰かのやさしさに時間差で気づくと、とてもしあわせであると同時にすこし後ろめたい。でもその愛が無償だったこともわかっている。
そして今度はわたしが息子のよろこぶ顔見たさに朝6時からオセロをしている。
世の中はうまくできている。
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そうこうしているうちに6時半になって、こどもちゃれんじの付録でもらったコラショの目覚まし時計が子ども部屋で鳴り響き、しばらくして静かになって、次男がてとてと降りてきた。「時計止めたの?」と聞くと、「こわいからかくちた」というのでちょっと絶望した。
明日の朝も6時半に鳴ったらどうしよう。
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子どもたちが小学校と保育園にいったあとは、雨音に包まれながらちょっと本を読んだ。雨を雨音の心地良さでことばがたくさんしみ込んできて気持ちが良かった。
いまは、古賀及子さんの『ちょっと踊ったりすぐにかけだす』を読んでいる。生活のなかのささやかな発見やきめ細やかなこころの変化や親子のなかで共有しているユーモアが、心地いいリズムで語られている。会ったこともない誰かの平和な日常を垣間見ることが、なぜこんなにも癒しになるのか。
それからちょっと仕事をした。今日は対面もオンラインも打ち合わせがなかったので、ずっと、自宅の二階の大きな窓の向かい側にいた。
ときおり、小鳥(名前はわからない、ツバメでもスズメでもメジロでもないちいさな鳥)がテラスの手すりのところで雨宿りをしていた。
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あっという間に夕方になって、車でスーパーに行って買い物をし、長男を学童に迎えに行って英会話教室に降ろし、保育園で次男を迎えて帰宅した。こういう絶え間ない親業の一連の流れは、油断すると予定していた工程をすっ飛ばしてしまったりするが、うまくいくと充足感を味わえる。
今日は、傘を忘れた以外はうまくいった。
さて、ねむるまでに目覚まし時計を探し出して、明日の目覚ましをリセットせねば。