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娘に伝える近代史と我が家の歴史

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記事一覧

(第22回)敗れたが祖国は残った

アメリカは日本を弱体化させる為に農地解放を行ったり財閥を解体したり、色々なことを実行しました。農地解放により、我が家も母方の本家は多くの田畑を失いました。

しかし後になって、日本をヤワな国にしてしまうのは危険だ、再武装させて共産圏への防波堤として機能させた方が良いぞと、方針転換したアメリカは日本に再軍備を促して警察予備隊という自衛隊の前身を作りました。

自衛隊の出自はこういう経緯なので、現在矛

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(第21回)戦後

終戦に関する様々な出来事は「日本のいちばん長い日」を観るか読んでいただくとして、昭和20年8月15日の玉音放送とともに、ものすごい数の命が失われた戦争は終わりました。

それから至る所で日本軍の武装解除が行われましたが、その時に駐屯していた場所によって、どの国の軍隊に降伏し武装解除されるかが決まっていました。
例えば第六師団が戦っていたブーゲンビル島は、終戦時オーストラリア軍が相手でしたのでオース

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(第20回)スターリン、シベリア

ソ連は、といいますかスターリンは欧州戦線が片付いたら日本との戦いに参戦する、という連合国との裏打合せは既にできていました。

なぜ日ソ不可侵条約を一方的に破棄してまで日本との戦争に加わるかと言えば、それは戦勝の果実が欲しいからでした。そしてスターリンは戦後の青写真をはっきりと頭の中に描いていたのです。

日本は長年、ソ連を仮想敵国としてきました。ですからソ連との国境に接する地帯に配置されていた「関

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(第19回)特攻

特攻は、色々あります。

飛行機に爆弾を積んで突入する航空特攻の他、
人間が魚雷の中に入って自分で操縦して突入する「回天」、人間がロケットエンジンを積んだ爆弾を操縦して突入する「桜花」、大和をはじめとした戦闘艦が一丸となって沖縄へ突入した水上特攻、
あまり知られていないものでは、トヨタのモーターで動くベニヤ張りのボートに爆薬を積んで突入する「震洋」、海岸の浅瀬に潜水して、棒地雷で艦底を突いて自分も

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(第18回)大和、坊ノ岬沖

沖縄で死闘を続ける日本軍と民間人の方々を、制空権、制海権を失った状態でどう支援するか。立案されたのは陸海軍の残存航空戦力を総動員した一機一艦の体当たり「特攻」でした。

海軍軍令部総長の及川古志郎は天皇陛下にこう上奏します。

「海軍航空の総力を挙げて特攻作戦を展開します」

陛下は、こう下問されたと伝えられています。

「飛行機だけか、海軍に船は残っていないのか」

どういう文脈での下問だったの

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(第16回)神風

栗田艦隊のレイテ湾突入を支援するために、海軍航空隊では遂に、一機一艦の体当り攻撃、「特攻」が企図されました。
但しこの時点での特別攻撃隊は、あくまで捷一号作戦において敵空母の飛行甲板を破壊し、一時的に敵航空戦力を削ぐことを目的としたものでした。

この悲壮な任務にあたり、関行男大尉率いる「敷島隊」、そして「朝日隊」「山桜隊」の3隊が編成されており、各隊共に捷一号作戦発動とともに会敵機会を狙っていま

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(第15回)死闘の末

その時栗田艦隊が見たのは、レイテ湾の輸送船団を護衛するアメリカの護衛空母群でした。もちろん機動部隊本隊、つまりハルゼーの部隊ではありません。

しかし囮作戦成功の電信を受信できていなかった栗田艦隊は、これが敵の正規空母部隊であると信じ、艦橋では歓喜の声があがったそうです。

これまでずっと、敵の空母から発進した航空機にやられっぱなしでしたが、これは砲で撃ち合う、夢にまでみた艦隊決戦です。この日の為

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(第14回)昭和19年10月25日

一方、囮の役目を負った小沢機動部隊はこのとき、どうしていたのでしょうか。もちろん「敵に発見されるために」頻繁に電波を発しながらハルゼー機動部隊を探して南下していましたが、ハルゼーの機動部隊は先述の通り栗田艦隊に襲いかかっていました。

しかし遂に、ハルゼーは小沢機動部隊の存在を感知します。栗田艦隊に空母部隊が付随していない事を怪しんでいたハルゼーは、北方に日本の機動部隊発見の報を聞くや、こちらが本

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(第13回)日本海軍の死華

マリアナ沖で壊滅した海軍航空隊の再建が急がれる中、連合国(米軍)の侵攻は遂にフィリピンへ到達しました。

日本も、米軍進行ルートをフィリピン方面、台湾方面、小笠原方面、北海道方面の4方面の何れかに侵攻してくると予想しており、米軍内ではフィリピンを避けて進むべしという意見もありましたが、マッカーサーは開戦初頭でフィリピンを追われる際、「I shall retern」という言葉を残して去っていましたの

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(第12回)あ号作戦

昭和19年6月、米軍によるサイパン・マリアナ諸島侵攻に対し、
日本海軍は絶対国防圏を死守すべく「あ号作戦」を発令します。
マリアナ沖における米機動部隊と、日本機動部隊の一大決戦です。

この作戦の指揮をとった小沢治三郎中将は、日本の航空機の航続距離の長さを活かし、敵の制空権外から航空攻撃を仕掛ける、いわゆる「アウトレンジ戦法」によって敵機動部隊を殲滅することを企図します。
日本の航空機の方が長く飛

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(第11回)絶対国防圏

そして迎えた昭和19年、クェゼリン島の日本軍玉砕、2月には連合艦隊の本拠地ともいえるトラック島が空襲を受け、航空機270機、艦船も数十隻失うという大損害を出します。

迫りくる連合国の包囲網に対し、日本はマリアナ諸島、カロリン諸島、ゲールビング湾、ニューギニア以西を範囲とした「絶対国防圏」を設定し、最重要拠点であるサイパンの要塞化を進め、時の首相東条英機はサイパンの防衛に絶対の自信を表明します。

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(第10回)ソロモン消耗戦

昭和18年2月の日本軍ガダルカナル撤退以降、ソロモン諸島からニューギニア方面での戦いが激化します。

日本は開戦当初からラバウルに陸海あわせて10万の将兵を進め、
大規模な航空基地と要塞を築いていましたが、この頃から連日、航空戦に明け暮れる事になります。

また海上でもレンネル島沖、ビスマルク海、クラ湾、コロンバガラ島沖、ベラ湾、ベララベラなど数多くの海戦が起こり、日本海軍も徐々に消耗していきます

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(第9回)終末攻勢点、ガダルカナル

「戦力は根拠地と戦場との距離の二乗に反比例する」

絶対試験に出ることはないので覚えなくていいのですが、
これはクラウゼヴィッツの軍事論で、この公式に則った攻撃の限界点を「終末攻勢点」といいます。

西太平洋のソロモン諸島にあるこの島、ガダルカナル島は、日本の終末攻勢点を超えていたと言えます。

昭和17年8月、連合軍がガダルカナルに奇襲上陸。
しかし日本軍中央はこの作戦意図を読み誤り、威力偵察と

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(第8回)破竹の進軍とミッドウェー

最後まで外交による努力は続けられましたが、
ニイタカヤマノボレ1208、遂に日本は米英蘭を相手に開戦しました。

当時多くの米軍人は、日本人はみんな近視のメガネで出っ歯で、創造性に乏しいと思っていたので、まさか日本がものすごい航続距離を持つ零戦や圧倒的に優れた酸素魚雷を装備しているなどとは知らず、まして機動部隊がハワイへ奇襲をかけるとか、そんなこと出来るはず無いと思ってましたが、日本の機動部隊はや

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