(第9回)終末攻勢点、ガダルカナル

「戦力は根拠地と戦場との距離の二乗に反比例する」

絶対試験に出ることはないので覚えなくていいのですが、
これはクラウゼヴィッツの軍事論で、この公式に則った攻撃の限界点を「終末攻勢点」といいます。

西太平洋のソロモン諸島にあるこの島、ガダルカナル島は、日本の終末攻勢点を超えていたと言えます。

昭和17年8月、連合軍がガダルカナルに奇襲上陸。
しかし日本軍中央はこの作戦意図を読み誤り、威力偵察と判断して正確な敵情を掴まぬまま、グアムに待機していた旭川を拠点とする第七師団の一木支隊(一木大佐以下約900名)を急派します。

しかし、オーストラリアとの補給路を絶対に確保しておきたい連合国は、ガダルカナルをなんとしても奪還すべく、この作戦に周到な準備を進めており、精強で謳われた一木支隊ですが数倍の戦力で待ち構える米海兵隊の集中砲火を浴び、ほぼ全員が戦死されます。
その後、川口少将率いる川口支隊約4000名が上陸、死力を尽くしてジャングルから迂回し、総攻撃を試みますが攻撃は失敗、補給がままならない日本軍は飢餓とマラリアなどの病に悩まされるようになり、所謂「ガ島(餓島)」と呼ばれる凄惨な状況が出現します。

ここで初めて日本軍中央は事の深刻さに気付くこととなり、
やっと師団規模の戦力(丸山中将率いる第二師団)を投入しますが時すでに遅く、日本は兵力の逐次投入という愚を犯してしまい、戦局の挽回は困難なものとなっていきます。

一方、ガダルカナル島争奪戦当初から、これを全力で支援してきた海軍も
第一次、第二次ソロモン海戦、サボ沖海戦など、連合国と互角の戦いで渡り合いますが、この頃から連合軍はレーダー照射による夜間射撃で日本軍艦艇も大きな被害を受けるようになります。
しかしレーダーを装備していない日本海軍が夜戦において人間の目だけでここまで互角に渡りあえたこと自体、奇跡の練度といえるかもしれません。

そしてガダルカナルに米軍が作ったヘンダーソン飛行場へ向けて、戦艦金剛、榛名による殴り込み作戦の成功、南太平洋海戦では米軍の空母を沈め一時的に敵の稼働空母をゼロにするなど、日本海軍も勇戦しますが、代償は大きくベテランパイロットの多くが命を落としました。

そして日本は徐々に消耗する戦力を補給することができず、制空権、制海権を奪われて以降、補給がままならないまま、島内の日本軍の方々は次々と飢餓、病によって尊い命を落とし続けました。

ものすごく哀しいエピソードですが、
ちょうど一木支隊がガダルカナルで戦っていた8月20日の深夜、
遥か6000キロ離れた日本の北海道、旭川の第七師団兵営(留守部隊)の営門で立哨に就いていた衛兵が、抜刀乗馬の将校を先頭にした部隊が近づいてくるのを見たそうです(全員、何故かズボンが濡れていた)。

「南方で戦っているはずなのに変だな…?」

とは思いつつも、衛兵は「整列!」と衛兵所に声をかけて
先ほどの部隊を待ちますが、いつまでたっても営門へ帰隊する様子がなく、そのまま部隊はかき消すように消えていたといいます。

正にそのころ、一木支隊はガダルカナルの海岸線で死闘を繰り広げており、魂だけが故郷へ帰ってきたというわけです。

というエピソードや、誰もいないのに旭川の護国神社の玉砂利を歩く音がしたとか、そういうエピソードも語り継がれています。

ガダルカナルの戦いは非常に哀しく、非常に残酷なものですが、
「ガダルカナル戦記」(亀井 宏)などは本棚にいれておくべきだと思います。

そして昭和17年末、御前会議において遂にガダルカナルからの撤退が決定されます。明治の建軍以来、初の撤退でした。

決死の撤退作戦として実施された「ケ号作戦」によって、ギリギリなんとか命を繋いだ約10,000名の方々の救出に成功したものの、約20,000名以上の方々がガダルカナルに斃れました。うち約15,000名が餓死、病死と伝えられています。

後にガダルカナルを攻め落としたヴァンデグリフト少将は、
「もし日本軍が最初から大軍を投入していたら、連合国軍は追い落とされていただろう」と回想しています。

僕が読んだ、ガ島から生還した方による戦記には、ジャングルを抜けてヘンダーソン飛行場を奪回しようと迫った時、「あの時、握り飯さえあれば、飛行場は奪回できた。食うものが無くて、動けなかった」と書いてありました。

こうして激しい争奪戦の結果、ガダルカナルは連合国の手に渡り、ここから「ソロモン消耗戦」という長い戦いが始まります。

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