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二宮金治郎の銅像が消えていった理由
「僕の昭和スケッチ」イラストエッセイ218枚目
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僕らの子供の頃には殆どの小学校の校庭に二宮金治郎の銅像があった。
二宮尊徳(二宮金治郎)*は江戸後期の農政家、思想家。
幕末期に、農民の出身でありながら、荒れ果てた農村や諸藩の再建を成功させた人物。
少年期に薪を運びながら勉学に励んだという逸話(事実かは不明)は明治、大正、昭和の刻苦勉励型の教育理念の範とされ、各地の小学校に銅像が造られた。
しかし、ご存知のようにこの尊徳像は時代と共に徐々に撤去されていった。
それには、意外な理由がある。
薪を運ぶというイメージが時代錯誤のものとなっていった事もあるが、昭和後期になると日本全国に車の台数が増え、「歩きながら本を読むのは安全性に問題がある」と考えられるようになったのだ。
今風に言えば、「歩きスマホは危ないよね!」ということだ(笑)
このため、近年にできた二宮金治郎像には座しているものもあると言うが、
昭和生まれの身としては、やはり立ち姿が良い(笑)
*二宮尊徳 1787〜1856年 相模国足柄(現在の小田原)出身
「尊徳」は正確には「たかのり」と読むが、「そんとく」という読みで定着している。尊徳の自筆文書では「金治郎」としているが、一般には「金次郎」と表記されることが多い。
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