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中卒→有名大学合格の女子大生が【東大祝辞】に思うこと

4月から晴れて大学生のみなさん、合格おめでとうございます。私は大学二年生、拙い立場ではありますが、グローバルファンド 保健システム及びパンデミック対策部長 馬渕俊介さんの祝辞に添えて、私からもおめでとうを言わせてください。

”夢は、探し続けて、行動してみて、その中で少しづつ「彫刻」のように形作っていくもの。”

”時間が限られている中で、考えるべきリスクは、何かに失敗するリスクではなくて、難しい挑戦に踏み込まないことで、成長できず、なりたい自分になれないリスク、世界に対してしたい貢献ができないリスク、行動を起こさずに「現状に留まることのリスク」だと思います。”

”とても大切なことは「環境が人を作る」ということです。”

令和5年度東京大学学部入学式祝辞より(https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message2023_03.html)

これは東京大学学部入学式の祝辞の中でも、私が思うところのあった一部をピックアップしたものです。

「彫刻」「リスク」「環境」この三つについて綴っていこうと思います。


彫刻ほりのスタート、理系or文系


 大体、高校生くらいになると我々の「彫刻ほり」はスタートが切られる。


まず第一の選択は、「自分は理系なのか?文系なのか?」という問いに答える事から始まる。
しかしながら実際、自分が理系に向いているか文系に向いているかなんて、本人はまだわかっていない。

だって、向いているかどうかを見極める資料が、学校という閉鎖的な場所で評価された、1から5までしか書かれていない成績表という一枚の紙きれくらいしかないのだから。

だから、わたしたちは「数学って難しい感じがするな、とりあえず文系にしようかな」とか「理系に行けば生涯年収が高いって聞いたな」とか、そういう雲みたいなふわふわした理由で理系か文系かをわけ、その先の道を選択することになる。

自分が何をやりたいのかは見つかっていなくて当たり前。定期テストのためだけにする授業の中では、楽しいことを見つける方が難しい。

そうして、たいていの高校生は、周りの空気感や文系理系に対する社会的印象で文理選択を下すと思う。自分のやりたいことが見つからないから、周りの空気感社会的印象から与えられた数少ない情報をもとに、これからの自分に最適な選択をするしかない。


好きでなければ学問はできない
リスクを取りまくろう


 そうして必死に受験勉強をして、大学に入学する。でも、入った先の大学は、空気感や社会的印象で自分の選択をさせてはくれない。この講義は楽単だよとか、これを取っておけば将来役に立つよとかはあるけれど、それは自分の将来のレールを敷いてくれるものではない。

大学は自分がそれを本当に好きでないと、やっていけない世界なんだ。やりたくないことをやるにはレベルが高すぎる。

例えばあなたが数学が得意だけれども大して好きではないとして、大学数学の講義を取ったとする。得意であるからやっていけるだろうと席に座るが、実はこれがどうも難しい。好きでなければ続けられない。大学に行くと、得意であったことが一気に崩れ落ちていく様子がよく見られる。

それでも続けられるという人は、
好きだからの一心でしがみついている人だ。

得意であることと、好きなことは違う。得意であることは相対的で他者のありさまに依存する、好きなことは他の誰とも比べる事ができない。

好きであることは自分から湧き出てくる源泉の如し。大学は、自ら進んで学びに行くところだ。
進んで好きなことをするところだ。

だから、大学ではリスクを取りまくった方がいい。たとえば、学科編入とか、理転文転とか(これは限られた大学しか採用していないけれど)だ。

「あっ、これ自分好きじゃないな」
「これ自分向いてないな」

そう思ったらすぐに行動に移す。
その行動がうまくいくように、きちんと対策をしながら。
自分が心震えるものに出会いに行く。

ほとんどの大学の一年生の期間は、それが許されるための期間だ。だから、どの学部のあんまり変わらない基礎教養科目があるだろう。いまここでそういう選択をしたら、自分の可能性をつぶすことになってしまうんじゃないかと物おじしてしまうときがある。

だけれども、自分にとってつまらないことをすることほどくだらない時間はないのだ。


 これは高校のときの話にさかのぼるのだが、「大学ではリスクを取りまくれ」に本質が似通っているので、少し話をしよう。

作文がたまたま得意で、国語や英語や歴史の成績もなかなかよかったからという理由で高校文系選択をしたわたしは、生物や物理や医学の楽しさに触れることがなかった。あったとしても、とてつもなく退屈な受験勉強というカテゴリでだけしか触れることがなかった。

退屈に耐えられなくなったある日、受験勉強がつまらなくなってさぼりに出かけた。こんなところいられまいと、教科書もノートも置いて出て行ってしまったのだ。

まあ、さぼりに出かけた先に、高校生物で耳にしたハエのことが書いてある本があるじゃないか。さぼりに出かけたわけだけど、最悪なことに、自分は受験生だという強迫と自覚が身体にまで染みついていたから、思わずハエの本を手に取ってしまった。

しかし、なんということだ、変てこなハエ本をよく読んでみたら、こんなこと授業で習ってはいない。


「へえ、系譜ってこうやって分類されるのか。その基準ってなんなんだろう」

「ゲノム中の重複遺伝子が少ないのは知っていたけれど、それがキイロショウジョウバエを神経疾患モデルとして選ぶのになんの理由があるんだろう。」

「ああそうか、これを考慮しなくて済む方が解析には都合がいいのか。」

「だとしたら、自然科学って結構人為的な環境の設定によって発展してきたんじゃないか。」


とか。


授業でやらない範囲がなんて面白いことか。先人たちが築いた仕組みには理由があることをとことん考えられるのが面白かった。


高校は「こうであるからこうなんだ。理由は考えなくていい、とりあえずこうであるんだ」だったから。教科書の外で学ぶことって、なんて楽しいのだろう。

教科書は教えてくれなかった、試験は考えさせてくれなかった、そんなことがこの本にはやまほどちりばめられているではないか。

受験生としては最悪なことに、授業外の分野に心を激しく惹かれ、受験勉強などほっぽりだしてしまった。

受験勉強から学問への変革の瞬間である。


楽しさは学びの原動力

 楽しさは、学びの根源である。

当たり前のことだが、その手の専門家に比べればわたしは足元にも及ばない。足元はおろか、足元の土にさえ及ばない。

でも、楽しいのだ。誰かの足元にも及ばないとか、そういうことが気にならなくなるくらいに楽しいのだ。楽しくて仕方がなくて、専門家に知識量で負けて悔しい(当たり前のことなんだけどね)とか、この間に同級生は受験勉強を着々と進めていて自分を追い越しているだとか、そういう焦燥感は感じなかった。

その焦燥感に苦しめられてきたのが、おそらく今の若者にはたくさんいるのではないか。


「どうにかして勝ち上がらなきゃ」
「相手を打ち負かしてやらなきゃ」
「いい生活を送るために今苦しい思いをしなければならない」

だとか。私はそれが苦しかった。


私事にはなるけれど、私は未成年をカモにする劣悪な犯罪者によって高校の退学を余儀なくされている。その間同級生が着々と大学受験勉強に勤しめているのが羨ましかったし、自分の未来が断たれたことに焦燥感を抱き、毎晩苦しんでいた。

中卒の肩書、しかも女。そんな人間がいいところに就職できるはずもないし、人生お先真っ暗である。加害者にとってはたった数回の犯罪行為、だけどわたしにとっては未来ある人生を台無しにした劣悪な行為。到底、一生かかっても償いきれるようなものではない。

その中でも高卒認定をとって、大学受験をして、なんとか人生を立て直してきた。そこにあったのは、わたしの元々の能力ではなく、楽しさに向かう学びの原動力であった。

もちろん、学びの原動力を支えてくださったツイッターのみなさまのお陰があって、「誰もが知る有名大学合格」を実現させることができた。


探し続けて、行動して、作り上げた私の彫刻。
「受験に失敗するリスクを心配し、面白いと思った学問に踏み込まず、現状に留まること」から脱却したこと。
「応援してくださるツイッターの皆様が勉学の出来る環境となって、私を作ってくれたこと」の大切さ。


今年の東大入学式祝辞は、私の思うところと、これでもかと一致していて嬉しい。
「夢」「経験」、そのお話を通して私を初心に返らせてくれた。これからも支えてくださった皆様に感謝を忘れず、精進していきたい。


ピッピちゃん

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