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気ままに読書録「羊と鋼の森(宮下奈都)」

時間が経ってから同じ本をもう一度読み返すと、違うものが見えてくる。

…..と、よく言われるけれど、それを私が初めてきちんと実感したのは、この本、羊と鋼の森(宮下奈都)だった。

初めてこの本を読んだのは20代の半ば頃。
その時の正直な感想は、あんまり心に残る本ではなかったなあ、だった。
つまらないと言わないまでも、本屋大賞を受賞して映画化されるほどの魅力は感じなかった。

30代に入って久しぶりにこの本をもう一度最初から読み返そうと思い立ったのは、この本に出てくる「一万時間説」を思い出したからだ。
たしか、今の研究室に入って1年くらい経った頃だったと思う。

学部生から博士課程までの6年間いた農学部の研究室から離れ、医学部の縁もゆかりもなかった研究室で新しい研究テーマを始めて1年。

最初は、違う学部で新しい研究テーマといってもどちらも生命科学系だから、1年もやればそれなりになるだろう。と、甘く見込んでいた。
けれども、1年経っても知識も技術も全然歯が立たない。

実験が全然進まない。進んでいる方向が正しいのかも自信がない。
そもそも、周りに教えてもらうばかりで、私は研究室にとってプラスの存在になっているのだろうか。
30代を過ぎた大人が、こんなんでいいのか。

そして、最も深刻なことは、こんな状況にもかかわらず、20代の頃ほど頑張れなくなっていたことだった。

新しい研究テーマを軌道に乗せるべく、今が正念場で踏ん張り時。
頭ではわかっていても、気持ちがついてこない。
頑張らないといけないのに、頑張れない。
いつの間に私はこんな人間になってしまったのだろう。

そんな風にモヤモヤしながら、とにかく目の前にあることをやる。
で、いいんだけど、この日々はいつまで続くの?

…..と、そんな感じでちょっと疲れていたのだと思う。
だから、「一万時間説」を、この本を思い出したのだろう。

この物語の舞台は、ピアノ調律師の世界。

多くの場合、最初に何かを始めるきっかけは、単純、好奇心、偶然、などの気軽な理由で、そんなに難しいことではなかったりする。
外村くんにとっては、板鳥さんとの出会いがこれだった。

けれど、それを本気でやってみようと強く心に決めた途端に、目の前にある壁がとんでもなく高いことに気がつく。

どれだけとんでもなく高い壁だったとしても、いつか必ず越えられる時が来るのであれば何も悩む必要はない。
ただただ、やり続ければいいのだ。
けれど、やり続けていると、頑張っても頑張っても未来永劫その壁を越えられない可能性があることに、だんだんと気がついてしまう。
そして残酷なことに、そもそも自分はまだスタートラインにすら立てていないことにも気がつく。

途方にくれる。焦る。

外村くんは、毎日、終業後にお店のピアノを全部調律し直す。
家に帰ればピアノの音源を片っ端から聞く。
本も読んで勉強する。
お店の先輩である板鳥さんや柳さん、秋野さんに教えてもらったこと、指摘されたことは、何でもメモする。

「一万時間説」とは、何でも一万時間かければ形になるという説で、平たく言えば、とりあえず5、6年やってみろということだ。

ただ、秋野さんの言葉を借りるのならば、
「一万時間説なんて、誰も真に受けちゃいないよ。一万時間を越えなくたって、できるやつはできる。一万時間を越えても、できないやつはやっぱりできないんだよなあ」
である。
身も蓋もないよ、秋野さん。身に染みる。悲しい…..。

ただ、自分で自分自身のことはよく見えないもので、板鳥さんや柳さん、秋野さんは、外村くんの中にちょっと違うものを見ていた。

思いついたことを片っ端から行動に移す外村くんは、とても努力家だ。
そして、板鳥さんや柳さんといったお店の先輩たちも、外村くんの努力を認めている。

けれど、外村くんはそのことに気が付いていない。
「焦るな」と言いたくなる先輩たちの心情も、理解できない。
なぜなら、外村くん自身は自分の頑張りがまだ足りていないと思っているから。

また、外村くんは自分自身のことを個性も才能も何もない人間だと思っている。
けれども、これまた先輩たちからすると、外村くんは真面目で素直で、山で暮らして森に育ててもらったからこその、貴重な感性を持っている。
秋野さんのような一度夢に敗れた人も、最後には外村くんを褒めるのだ。

私が初めてこの本を読んだ20代の半ば頃。
今思ってみると、あの頃の私には外村くんの気持ちはわかっても、板鳥さんや柳さん、秋野さんが外村くんに対して抱いている感情は理解できなかった。

今、もう一度読み終えて。
20代の私も、外村くんと同じで盲目で、ひたすらに自分は何もできないと思っていたし、私の周りにも板鳥さんや柳さん、秋野さんのような人たちがいたけれども、そのことにも気が付けていなかった気がする。

ただ一方で、でも、外村くんは不安で自信がないからこそ、苦しくてもびっくりするくらいに頑張れるのだと私は思うのだ。

今、現実で外村くんのような若い子を目の前にすると、見ていてヒヤヒヤするし、焦るな、落ち着け、と言いたくなる。
けれど、心のどこかに確実に「羨ましい」という感情がある。
彼らのエネルギーの強さは、たまらなく眩しい。

外村くんは物語の最後に、いつか和音ちゃんがピアニストとしてステージでピアノを弾くときのために、家庭用ピアノだけではなく、コンサートのピアノも調律できるようになりたい、という新しい目標を持つ。
外村くんの中で、「一万時間説」が幻想であることも理解した上で、それでも「こうなりたい」という感情が勝ったのだと、私は受け止めている。

ああ、なるほど。この本はそういうことを言ってたんだ。
物語が、すっと奥まで広がる。

2度目を読み終えて、私の心のモヤモヤが解消されたのかというと、それはよくわからない。
けど、そもそも、本に自分の悩みの答えがあることを期待するのは間違っている、というのが私の持論だ。
言えることは、自分だけではなくて、みんな、いろいろな世界にいるみんなが、悩みながらも諦めきれずに地道に歩いているということだ。

頑張れ、外村くん。
君はきっと、いい調律師になる。

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