わたしたちはどのようにして自閉スペクトラム症の計算論的精神医学から学ぶことができるのか(1) ー石頭計算機から認知革命へー
しばらく前から、自閉スペクトラム症の計算論的精神医学について書こうと思っていたのだが、よく考えてみると説明する前に色々と予備的に説明しておく必要のある事柄が多すぎて、簡単には取りかかれないことがわかってきた。
そこで、今回は計算機科学の発展に伴って心理学の分野でおきた『認知革命』と呼ばれる一連のうごきについて、予備的な解説をしておこうと思う。とはいっても、この問題にあまり興味のないひとにとってはあまりにも退屈すぎると思うので、ひとりの精神科医がどのようにそれを受け止めたのかという個人史としても記述することで多少は読みやすさ改善するように試みたい。つまり読者の知覚を遅延させることによって、注意の焦点を維持することを支援しようというわけだ。(単なる老害の回顧癖である)
わたしが初めてコンピューターと呼べるものを触ったのは、たぶん高校生の頃ではないかと思う。1970年の高校指導要領で数学科の指導内容に計算機が入ったので、そのせいだと思うがなぜか学校にOlivetti P6040があって、部活と称していじっていた記憶がある。CPUはi8080、搭載している言語はBASICで、2.5インチの「olivetti Minidisk」という外部記憶媒体とサーマルプリンターが内蔵されていた。いまから見ればプリンター付きプログラム電卓のようなものだ。1973年に安野光雅「わが友石頭計算機」が出版されていて、それを読んで理屈はなんとなくわかっていたから、実際に作動する計算機を操作するのは楽しかった。そのちょっと前、1967年にU・ナイサーの「認知心理学」が書かれているのだが、もちろん当時は保育園にいたのでそんなことは知るよしもない。
その後、東北大学の教養課程にいたときに、計算機実習の授業を受けた。メインフレーム計算機MELCOMの学生アカウントをもらって、一日中計算機室にこもってFORTRANで遊んでいたときもあった。これが自分にとっての計算機についての唯一かつ最後の正規の教育だったと思う。
そんなころ、1983年にリンゼイとノーマンの "Human Information Processing - An Introduction to Psychology - (2nd Edition)"(1977)の日本語版『情報処理心理学入門』(全3巻)が出た。”デーモン”と呼ばれるエージェントが、並列的に情報を処理するイラストがついている本で、なかなか楽しくかわいらしい装丁の本になっている。非常に極端に誇張して言うならこの本が縁となって、最終的には農学部から医学部に入りなおす結果になったともいえる。
そうはいっても、この時点では生物学的な関心のかたわらで「人間とは何か」という雑な問いに駆り立てられていたにすぎないのだが、振り返ってみると、物理学者の渡辺慧が『認識とパタン』を1978年に出すなど、世の中全体としても認知革命の熱い気分が盛り上がってきていたのだと思う。しかしながら、80年代当時の日本の人工知能研究は、例の悪名高い第五世代コンピュータにみられるように、「述語論理を高速で大量に処理すればいいのではないか」というような人工知能に対する考え方がむしろ主流であったと思う。それは人間観としては、当時の論理実証主義的/記号論的なものの考え方に相応していたといえるのかもしれない。だがこうしたアプローチの仕方は、いまから思えばあまりにも機械的で力任せの硬いやりかただった。そんな事情もあって、この時期には工学的な人工知能研究から人間の脳に関する研究へのフィードバックはまだ弱かったといえるかもしれない。
しかし、第五世代コンピュータ的なテキスト処理/述語論理タイプの人工知能研究とは別に、1943年のマカロク・ピッツの形式ニューロンモデルにはじまる生物の神経系に近いアーキテクチャをもつモデルの研究の流れがあって、1958年のローゼンブラットのパーセプトロンを経て、1986年のラメルハートらによるPDPモデルに至る。こうした中で定式化されたバックプロパゲーションの考え方は、のちに世間で流行するディープラーニングにつながっていくことになる。
上記の図は、ネットでたまたま見つけてオープンライセンスで公開されていたのでお借りした。○で表されているのが神経ユニットだと考えてもらいたい。これが縦に一列ならんでいるのが”層”である。入力信号を受け取るのが入力層、出力信号を出すのが出力層である。その間に何層かの隠れ層が入っている。各層の神経ユニットは、入ってきた信号に対してある設定されたパラメータを掛けて次の層の神経ユニットに信号を伝達する。そこで、入力側からある情報を入れると、出力側から変換された信号が出てくるという、ある意味で単純な装置である。
ここで大切になるのが、このモデル的な神経回路にどうやって学習をさせるかということである。詳細を省いて概念だけ伝えると、出力層の信号を正解(教師信号)と比較して、その誤差の大きさを指標として、信号の流れとは逆向きにたどってパラメータを調節していく。これがバックプロパゲーション(誤差逆伝播法)である。
ちなみに、最近のディープラーニングの特徴は、このようなシステムの隠れ層を非常に多くして、かつパラメータの調整のやりかたに大きな工夫を加えたところにあるのだが、わたしはそちらの専門家ではないのでそれについての詳細は他に譲ることにする。いずれにしても、神経生理学を習ったことがあれば、これが生物の神経系のモデルとして比較的自然なものであることはイメージできると思う。
個人的には、このようなパーセプトロンやPDP(並列分散処理)モデルとの出会いは大きな衝撃で、これは大切だぞという意識はあった。しかし、このやりかたで視覚などの比較的低次の情報処理はよく説明できるだろうが、精神作用の全体的なまとまりを考えるには、ちょっと難しいのではないかという印象もあった。実際、バインディング問題というのがあって、白いウサギと赤いリンゴを見たときに、どうして赤いウサギと白いリンゴになってしまわないのか、並列モデルで説明するのはなかなか容易ではないことが知られている。時間的同期を使えばできるという意見もあるが、外的刺激は知覚トリガーがあるからともかくとして抽象概念同士だったらどうやって内部的に時間的同期を作れるのだろうかという問題もある。これについては、いずれ説明することになるが、もしも脳が「階層的な予測誤差最小化原理」に随っていると仮定すれば、ある意味でこのような「まとまり」が生まれることは当然そうなるべくしてそうなるのだともいえる。しかし、そうした考え方が盛んになってくるのは2006年にフリストンが「自由エネルギー原理」を発表してからなので、振り返って考えれば1925年のヘルムホルツの発想までさかのぼることができるとはいえ、このときわたしの頭には影も形もなかったのである。
1993年、医学部を卒業するときに、小児科と神経内科と精神科で迷って、神経内科の塩澤全司先生にどうでしょうと相談したら、東大は揉めてて大変だからどうしても精神科に行きたいなら名大の太田龍朗先生を紹介してあげるよとまで言ってくださった。本当に有り難かったが、その夏に平松謙一先生の講演を聴いてMEGに興味を持ったのと、どうしても太田昌孝先生のもとでピアジェの発達心理学を勉強したかったので、結局は東大の精神神経科に入局させてもらった。同期4人で入局したときには、まだ旧外来棟のくすんだような地下に外来も医局もあり、さらに狭くるしいところへ脳波計まで押し込んであって、これは凄いところに来たなと思ったものである。しかし、入ってみるとなかなか楽しくて、毎日何もかもが新しいことなので緊張はしたが、ともかく最新のことを最高レベルで惜しげもなく教えていただける環境で楽しかった。もちろん、それは叱られたことだってあるし、何もわからないので常に自信がなかったが、あの研修医1年生の経験がいまの自分の全ての基本を作ってくれたと思う。
その翌年には、外来と病棟の統合があって大変なことになるわけだが、それはまた別の話である。ちょうど1990年にDOS/Vが出てAT互換機が使えるようにはなっていたけど、NEC98シリーズがまだまだ現役だった時代のことで、インターネットはといえば、やっと大学内では使えるようになったというぐらいの黎明期であった。そのうちにGopherからwwwになって、精神神経科小児部のホームページをUMINで作ったり、自宅でこっそりperlCGIのコードを書いたりはしていたが、この時期には計算機のスキルと精神医学が結びつくというようなイメージはまだ全くなかった。
とりあえずここまでで、"わたしと計算論的精神医学前史"についてのはなしは終わり。それでは『装甲騎兵ボトムズ』リスペクトで次回予告です。
”次回、「予測する心」 来週も計算論の地獄に付き合ってもらう”
何でいまさらボトムズよって? えーと基本的にはフリスの「ボトムアップ処理-トップダウン処理バランス」仮説なんで…… (←連合弛緩)
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