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純粋経験と思惟の関係

西田幾多郎の『善の研究』における純粋経験のなかに「思惟」が含まれることに疑問の声がある。

「思惟」とは主体と対象の対立の上に成り立っている言語的知性であって、純粋経験はなんの反省も行われていない主客未分の状態であるから、そこに矛盾があり理論が破綻しているという理由である。

ところが「『善の研究』の第二章 思惟」には研究者や批評家の疑問に思うであろう点について最初から『善の研究』の立場と西洋哲学の対象が異なることを解説をしている。

その違いとはリンゴをリンゴと判断するのに、ミカンを加えて、これらは果物であり、このリンゴはミカンでは無いからリンゴであるとわざわざ矛盾律を持ち出さなくっても良いと西田いうのである。

ミカンで無くってもマンゴである可能性もあるからである。

それよりリンゴの特長を文節、分析して判定すれば良いのだという。

西田は哲学者らしく少し難解な言葉で次のようにいう。


思惟というのは心理学から見れば、表象間の関係を定めこれを統一する作用である。

その最も単一なる形は判断であって、即ち二つの表象の関係を定め、これを結合するのである。

しかし我々は判断において二つの独立なる表象を結合するのではなく、かえって或一つの全き表象を分析するのである。

表象間の関係とはリンゴの表象とミカンの表象を結合して比較しなくとも良いというのである。

哲学の方面より言えば、純粋経験を理解するのに西洋の哲学の理念を持ち込まなくっても良いのだという。

例えば純粋経験の心像を浮かべるのにサルトルの「嘔吐」を結合してしまうと、西田のいう純粋経験では無くなってしまうのである。

なぜサルトルの「嘔吐」を例に出したかといえば、純粋経験の心像として「液体状態」を想起している研究が見られるからである。

純粋経験とは言っても花は花であり松は松に変わりはないのであり花が液体に見えることはないからである。

西田も純粋経験とは混沌とした統一であると言う、あるいは意味のない経験であるともいうが、「凡(すべ)ての関係を綜合統一する論理的直覚が働いている」ともいい、混沌としていながら綜合統一的でもあるのである。

西田哲学においては純粋経験主客未分心像は同一の概念であり適時使い分けられている。

だから「思惟の運行も或具象的心像を藉(か)りて行われるのである、心像なくして思惟は成立しない。」という。

すなわち思惟とは純粋経験(心像)を文節して言語化して推論した結果であり、それが再び統一されれば純粋経験(心像)という。

それを否定の否定といい、花は花でないから花であるという。

西田は「普通には知覚的経験の如きは所動的で、その作用が凡て無意識であり、思惟はこれに反し能動的でその作用が凡て意識的であると考えられている。」という。

ここから読み取れるのは無意識とは反省が無いから純粋経験と考えられる。

ところが、ラカンの哲学では無意識は言語として構造化されるといい、西田は純粋経験は無意識であるといい、そもそもその基礎的仮定が違った体系を同列に比較しては意味がないのである。

純粋経験はなんの反省も行われていない主客未分の状態に戻って話そう。

その意味するところは「反省」が意識的に行われれば純粋経験では無いということであり、理由は思惟は能動的で意識的であるという。

しかし「反省においても一表象より一表象に推移する瞬間においては無意識である、統一作用が現実に働きつつある間は無意識でなければならぬ。これを対象として意識する時には、已(すで)にその作用は過去に属するのである。

我々が能動的に文節、分析すると考える意識的、知的作用は過ぎ去った結果の記憶であり、それに対して思惟の過程は無意識(純粋経験)と西田はいうのである。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

青空文庫を参照引用しました

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