『夢中問答』第七話:輪廻とは
問い
仏菩薩は因果の法則に対して無力であれば仏教は何のために存在するのでしょうか。
夢窓国師答えて曰く
仏教には諸行無常と言って本来は自我なんて無我であるのだが凡人は妄想に拘って名利を守るために要らぬ苦労をするのである。
妄想は妄想を呼びそれが集団にまで及ぶと回り回って自己に戻ってくるそれを「業(ごう)」と呼び自己の力だけでは消すことは出来なくなる。
時間がたてば集団から別の集団にうつり手の届かない範囲にも及ぶことになる。
それは何時しか風のように舞い戻ってくるのであるが近年ではインターネットの普及により一瞬の内に全世界に広がる。
そうなれば仏教の力も及ば無くなるから因果の法則を知り他者を軽蔑したり嫉妬したりせぬことである。
良かれと思って言ったり行ったことも相手にすれば知られたくない心の傷に触れたことになり羨まれることもある。
馬鹿だ馬鹿だと何時も自ら言っていても面と向かってバカだと言われると心穏やかではいられない。
だからと言って心配し過ぎて消極的になっていては善業は出来ないから間違ったら反省することである。
ところで君は自らの行いを反省せず「業(ごう)」の災いを仏教のせいにしているが輪廻と科学の違いを知っているか。
輪廻とはお釈迦様の生まれる前からあるインド哲学の思想である。
仏教でも時と場所、人により輪廻を用いて因果律を説明したりしなかったりするのは仏教の慈悲である。
科学的と言われる心理療法とおおきな違いは輪廻に有るが前近代的と思われるであろうがあくまでも慈悲による表現である。
言っては成らないことも有り言わなければ成らないことも有る。
その基準は因果律が相互の関係に災いを起こす時には言葉による表現を控えるのである。
言葉は煩悩を増幅することは有っても消すことが出来ないからである。
無言こそが雄弁であることも有り丸く災いを収めることを知らねばならない。
最近では毒親と言う言葉もあるが確かに状況を正確に表現しておるが古くはフロイド派はエディプスコンプレックスと言っていた。
それでもエディプスコンプレックスでたやすく問題を解決したとは思われない。
むしろ成人になれば毒親とは戦うことであって自然に解決できないと思うべきである。
戦うと言っても喧嘩をすることでは無く毅然とした態度を示すことである。
夢窓国師はこの態度を真実の正直の人と言い、仁義の道とは物をころさず理をまげずば、正直の人なりと言う。
参照
『夢中問答』夢窓国師 岩波文庫
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