『吾輩は猫である』論1:ラカンの「対象a」との無言の会話
今回はとても面白い応用編を紹介したいと思います。
言葉を使わないで相手の行動を思うように左右する方法について知りたいと思いませんか。
タネも仕掛けも使いません。
ただ相手の命を懸けたいと思うほどの欲望を知り満足させるだけです。
やはり前回と同じラカンの「対象a」についてですが「対象a」は想像界なので言葉がつかえません。
だから会話はできないと考えるかもしれません。
象徴界は言語で出来た世界でした言語で考えたり会話ができます。
ところが想像界とはイメージとか意味の世界でした。
だから我々が会話ができるのは言葉のある象徴界においておこなわれるのです。
象徴界とは我々の約束によって犬は犬であり猫ではないと決められた世界です。
そして言葉をつないで意味を作れます。
想像界では白と言って黒を想像しても構わないのは個人のイメージだから勝手に決めてもいいのです。
何故ならそのイメージは他者に影響あたえないのです。
ところが漱石は想像界と象徴界の中間に存在する「対象a」においても会話が行われていると言うのです。
言語の無い世界だから「無言の劇」が象徴界とクロスして演じられてというのです。
ラカンの「対象a」とは欲望の対象であり決して満足されることはないものである。
あくまでも欲望の対象であり原因ではないので見たり言語化できない。
たとえば人間の体面とか人望とか自尊心、プライドなどはどれだけみたされても満足することはないのですね。
また「対象a」は小文字の他者といわれ自我として欲望を満たそうとします。
だけれども想像界であるが故言語が使えないのです。
そこで表情や態度でもって意思表示をおこないます。
それに対して「対象A」は大文字の他者といわれ無意識であり他者の欲望である。
また象徴界の言語化された世界であり相互の理解がはかのうであります。
しかし現実にはとても難しいことだとだれもが経験していることです。
何故なら「対象a」が自我と結託して表情や行動でもって意思表示をおこなうのです。
そのため言語では解決できない矛盾が起こることになるのです。
話し合いで決着しようと意識では考えていても体が嫌がるのは「対象a」が反対するのです。
また場を読むとか風を読むとか忖度といわれる言葉によらない意思疎通もそれを可能性しているのが「対象a」なのです。
詩や短歌俳句などの行間を読むのも想像界のイメージが補っていると考えられるのです。
五・七・五・七・七の短歌は約束といっても最小限にしぼられています。
それでは『吾輩は猫である』から面白い「無言の劇」を紹介します。
「無言の劇」だから会話は行われません。
しかし思ったように相手の行動を確実に制御できるのです。
言葉を使わないから相手は意識したり考えるこもできないのです。
そして相手の欲望を満たすことによってあなたは相手の行動を左右できるのです。
しかと猫の妙術をご覧ください。
それは、猫と鈴木藤十郎の「無言劇」なるもので、鈴木藤十郎が珍野苦沙弥家へ訪問し案内された時、座布団を出され進められたのですが、すでに一匹の猫が座布団に座っていたのです。
その時の鈴木藤十郎君の態度、表情から吾輩は「この時鈴木君の胸のうちにちょっとの間顔色にも出ぬほどの風波が起った。」と感じ取ります。
「猫の態度がもっとも癪(しゃく)に障る。少しは気の毒そうにでもしている事か、乗る権利もない布団の上に、傲然(ごうぜん)と構えて、丸い無愛嬌(ぶあいきょう)な眼をぱちつかせて、御前は誰だいと云わぬばかりに鈴木君の顔を見つめている。」鈴木君の不平不満を知りながら「吾輩は鈴木君の不平な顔を拝見するのが面白いから滑稽の念を抑(おさ)えてなるべく何喰わぬ顔をしている。
「吾輩と鈴木君の間に、かくのごとき無言劇が行われつつある」と言います。
もちろん、鈴木藤十郎君がこのような不平不満を明確な形ちで考えている訳では有りません。
ほとんど無意識の領域に属するもので、意識することはありません。
さらに不平不満を言葉にすることもありませんでした。
それなのに、会話が成り立つのかと疑問に思うかも知れません。
そこで吾輩は鈴木藤十郎君の不平不満を確認する為に不作法を、これでもかこれでもかと繰り返して体面を崩そうとします。
「御前は誰だいと云わぬばかりに鈴木君の顔を見つめて」、失礼な態度で臨むのです。
鈴木藤十郎君は体面が崩されれば、なおさら体面を保とうと冷静さを装います。
言葉で対応するのではなく態度で返事をするのです。
無言であっても沈黙であっても、心の奥深く切り込んで性格を確認しています。
此処で鈴木君と吾輩の無言が無言の対話に成る条件は、吾輩が鈴木君の不平不満を知りながら、「何喰わぬ顔をして」、「鈴木君の顔を見つめている。」事です。
鈴木君が「なぜ早く吾輩を処分して自分の不平を洩(も)らさないかと云うと、これは全く鈴木君が一個の人間として自己の体面を維持する自重心の故であると察せらるる。
もし腕力に訴えたなら三尺の童子も吾輩を自由に上下し得るであろうが、体面を重んずる」からである。
力関係に於いては弱い吾輩が鈴木君に座布団を譲らないのは、吾輩の無言の力が存在していたからなのです。
その無言の力とは、「一個の人間として自己の体面を維持する自重心」が人間の弱さと知っていたからです。
吾輩には「自己の体面を維持する」必要が無いからです。
もう気づいておられると思いますが「体面」とか「自重心」は「対象a」と言う欲望でした。
鈴木藤十郎君は命を懸けても惜しくないほどの「体面」を守る必要があったのです。
それが吾輩の力で有る事は明かです。
日常人間関係に於いて「無言劇」が絶えず繰り返されいる事がわかります。
商取引等の足元を見る行為は「無言劇」の典型的な例なのです。
猫だから無言は当然に違い無いのですが。
猫を人間と置き換えてください。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
夏目漱石の作品からの引用は青空文庫です。