『夢中問答』第二十四話:大智とは
問い
福を目的に働くことは悟りにとっては障害になることは解りましたが、理知を求めることも否定されるのは理解できません、そこのところはどうなんでしょうか。
夢窓国師曰く
仏のことを両足尊と言うのは福智ともに充実することを願っていることを意味するのである。
だから決して福智を嫌うことでは無く有為の福業は有漏悪と言いって妄想にまみれた福智を嫌うのである。
人間の行為には有為と無為の二つの種類があり因縁によって生じた行為を有為と言い、無為とは因縁に左右されない自由自在な行為を指す。
この有為と無為を現代的に言えば西田幾多郎の『善の研究』に出てくる純粋経験を無漏と言い煩悩を滅した無為の福智である。
無漏とは主体と客体の分かれる以前の智慧を言い主客未分の煩悩にまみれる直前の無意識の体験である。
言い換えると言語に因らない直感と言えるのであるが『善の研究』で西田幾多郎は「音楽家が熟練した曲を奏する時の如き、全く知覚の連続」をも純粋経験と言う。
更に「知覚の連続」だけでは無く「表象的経験であっても、その統一が必然で自ら結合する時には我々はこれを純粋の経験と見なければならぬ」と言います。
ここで「表象的経験」とは言語をともなう思考を言い有為と言う意識的思考の介入をともなわない思考をも純粋経験というのである。
有為とは意識的思考行為を言い、無為とは意識する以前の無意識的思考行為を言うのである。
誤解してはならないことはフロイトの無意識と混同すると間違いである。
フロイトの無意識的行為は有漏であって煩悩によって出来た知である。
大智とは本来誰にでも具わっていると言っても愚痴と智慧に遮られて現前しないものと信じて、心に浮かぶところの意識的思考を放下することである。
参照
『夢中問答』夢窓国師 岩波文庫:絶版
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。