『無門関』第十六則「鐘聲七條」音を見る
本則
雲門禅師が言うには、「自己の置かれた世界は広大無辺なのに、どうして鐘が鳴ると決まって袈裟を披るのか」
禅の問答とはこのように何と答えたら良いのか、漠然としていて困惑するのですが、即座に答えなければいけません。考えてから答えては失格です。
問われた一瞬に広大無辺が広がっているのであり、そこをのがすと逃げていきます。
広大無辺とは時間と空間が存在しない世界である。
目の前の一瞬の内に混沌としていて規則正しい決まりも何もない無秩序で意味のない世界で、何故規則を守るのかと言う問いです。
自然の世界とは音もすれば目には色んなものが飛び込んでくる、その中から鐘の音が聞こえると同時に袈裟を披るのは何故か。
それにたいして、無門というお坊さんは音や形、色に心を留めては成らないと言うのである。
同じことを沢庵禅師は『不動智神妙録』で太刀に心を留めては成らないと言った。
その意味するところは、諸行は無常ということで、時間は止まらないから心も止めては成らないというのである。
さらに、音の世界は無空間、無時間的であって直線的、平面的ではなく、自然は虫の鳴き声や風に揺られる葉っぱの音は順序よく並んでおらず、それぞれが混然と生じては消えてゆく無意味な世界である。
音は同時には聞くことは出来ず、一瞬にして消えて行くゆえに心を留めては成らないのである。
それにしても、「聞声悟道、見色明心」という言葉を残して悟り開いたお坊さんもいるにはいるが、声や音は聞こえてくるのか、それとも聞きにゆくのか、さあ言ってみよと迫るのである。
意味を理解するには聞こえて来てからでは遅いので、聞きに行くと思うだろうがそれは正解であり、間違いでもあるのである。
無門というお坊さんが言うには正解は耳で聞いてはいけないのである、眼で聞くことであると言う。
これを言い換えれば耳で見ると言いってもいいのである。
何故なら音は単独では無意味な存在である。
意味とは空間、時間の順序に位置を獲得することによって生じるのである。
鐘の音はお坊さん以外の人には意味がないのである。
音は聞こえていても何の知らせか、合図か無意味な存在である。
鐘の音が意味を持つのはお寺の規則と一体に成って、文節して初めて意味をが生じるのである。
鐘の音は言葉のように連続していないから意味が無く、袈裟の表象と結ぶことによって意味が発生するのである。
音が袈裟の表象に組み込まれているから見えるのである。
我々が奥行きを感じるのは眼でだけでは無く、手の感触が合成されて三次元を見ているのである。
同じく距離感は音の時間差と協力することによって形成されたものである。
この様な理由を知ってしまえば、見えることと聞くこととは同一である。
頌に曰く、
そのことを、「會するときんば事、同一家、會せざるときは萬別千差。
會せざるときも事、同一家、會するときんば萬別千差。」と言う。
理解できる人にとっては見えることと聞くこととは同一であるが、
理解出来ない人には音と規則は別々であるとかんがえるのである。
言わんとするところは、悟ろうと、悟らなくとも鐘の音は聞こえたり見えたりしていると言う。
西田幾多郎は『善の研究』の第一章で純粋経験で次のように言う
「純粋経験が客観的実在に結合せられる時、意味を生じ、判断の形をなすという。」
「例えば或聴覚についてこれを鐘声と判じた時は、ただ過去の経験中においてこれが位置を定めたのである。」
鐘の音が袈裟の表象(過去の経験)に組み込まれて意味が生じ判断を生ずるのである。
「これに反し、この統一が破れた時、即ち他との関係に入った時、意味を生じ判断を生ずるのである。我々に直接に現われ来る純粋経験に対し、すぐ過去の意識が働いて来るので、これが現在意識の一部と結合し一部と衝突し、ここに純粋経験の状態が分析せられ破壊せられるようになる。」
西田幾多郎の『善の研究』ほど『無門関』第十六則「鐘聲七條」を詳しく解説しているものはないであろう。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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