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『三四郎』論4:即非の視点

『三四郎』は三四郎の視点で書かれていて三四郎の考えや気持ちが主体です。

美禰子の心境は殆ど描写されていません。

美禰子は態度や表情行為が主でそれに言葉は断片的で意味不明です。

ですから会話はスムーズに進行していません。

小説の筋が断続的に切断されているのです。

このような小説は筋にそって読むとルビンの壺の顔を見ず壺しか見ていないのです。

図形だけを見て背景を見ていない状態です。

普通の小説は美禰子の気持ちや考えはナレーションでそれを補っています。

ところが漱石は意識的に背景の描写を避けているのです。

そのかわりその他の登場人物が象徴的に語る手法を用い言ています。

心を自然界の森とか断崖に変換して表現しているのです。

静かと言う代わりに森といい決断の意味を断崖から飛び降りるといいます。

また、

「空の色が濁りました」

「重いこと。大理石(マーブル)のように見えます」

「おもらいをしない乞食なんだから」

と言われ三四郎は返答に困ってしまいます。

この美禰子の言葉や心を理解するには何が足りないのか。

三四郎にとって、美禰子の態度が解りさえすれば「自分の態度も判然極める事が出来る」と言うが。

美禰子の視点に立てば三四郎の態度が解りさえすれば「自分の態度も判然極める事が出来る」と言えるのです。

三四郎と美禰子の視点を一方的に見るのではなく即非の視点でみることです。


最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

引用には差別言語がありますが、原文にしたがいました。何とどご理解の程お願いします。


引用参照は青空文庫です

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